男性遍歴多い「紫式部の娘」が最後に選んだ伴侶 母親とはまるで性格が真逆、長寿を全うした

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「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなほざりの 袖かふれつる」

意味としては「春が来るたびに私が深く思う梅の枝に、どなたか気まぐれな袖を触れさせて、その移り香を移されたのでしょう」。

どうも定頼は浮気者だったらしい。「会わない原因はあなたにあるのに、よくそんなことが言えたものね」と、相手をたしなめているのだ。

そうかと思えば、賢子は、自分のもとから足が遠のいていた定頼に対して、こんな歌も菊の花とともに贈っている。

「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花」

あなたは私に薄情なところがありますが、それでもあなた以外の誰に見せましょうか、この白菊の花を――。

そう言いながらも、賢子は、定頼の後任として蔵人頭になった源朝任(あさとう)とも恋愛関係になる。また、ある男性には、こんな歌を贈っている。

「恋しさの 憂きにまぎるる 物ならば またふたたびと 君を見ましや」

(恋しさが、些事に気が散って紛れるくらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか。紛れなどしないから、またお逢いしたいのです)

『後拾遺和歌集』に収録された歌だ。詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」とあることから、相手は道長の次男で、源明子を母に持つ藤原頼宗だということがわかる。

母譲りの巧みな和歌を武器に、賢子は有望な貴公子たちの心を次から次へとつかんでいった。

賢子が親王の乳母に選ばれたワケ

そうして上流貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子である藤原兼隆との間に娘を産んでいる。身分の差から、いわゆる「結婚」とは呼べないものだったとする見解もあるが、出産したことは確からしい。『栄華物語』には、次のように書かれている。

「大宮(彰子)の御方の、紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆)の御子生みたる、それぞ仕うまつりける」

すると、同年に東宮・敦良親王に第1皇子にあたる親仁親王も誕生。生んだ母親は道長の娘で彰子の妹、嬉子だったが、出産前に赤裳瘡を患い、2日後に死亡。さらに、乳母に決まっていた女房までもが赤裳瘡によって辞退したため、賢子が乳母の1人に選ばれることとなった。

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