選出された理由は「母の式部が有名だったから」とも「兼隆との子を生んだばかりだったから」とも言われている。おそらくその両方だろう。
賢子が最後に選んだ相手
そんな男性遍歴を重ねたのち、賢子は長暦元(1037)年頃に高階成章の妻となる。そして、親仁親王が即位して後冷泉天皇となると、賢子には三位典侍(さんみのすけ)の官位が与えられた。下級貴族の娘としては、これ以上ない位まで上り詰めたといえるだろう。
その後、後冷泉天皇の治世において、夫の成章は受領として最高の大宰大弐となり、その翌年には従三位を与えられている。夫の官名と自身の官位から、賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになった。
男性遍歴の果てに賢子が結婚した成章は、地方官を歴任していた。ひたすら蓄財に励んだことから「欲大弐」(『尊卑分脈』より)と陰口を言われていたという。
そんな夫だったから、成章が67歳頃で死去したのちに、十分な遺産を手にしたと思われる。安心のシニアライフを満喫しながら、賢子は80歳を超える長寿をまっとうした。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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