一方、宮中では、藤原道長もまた近しい人の死を体験していた。宣孝の死から約8カ月後の長保3 (1001)年12月22日、道長の姉にして、一条天皇の母・藤原詮子がこの世を去ることとなった。
そのため、式部は見舞客からの返歌として、次のように詠んでいる。
「なにかこの ほどなき袖をぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」
「ほどなき袖」は「ほどなき身の袖」ということで、つまりは「取るに足りない私のような者の袖」という意味になる。現代語訳は、次のようなものだ。
「取るに足りない私が、なぜ夫の死のみを悲しんで袖を濡らしているのでしょうか。国中の人が喪服を着ている時に」
悲しみから逃れるように物語を書き始める
やがて式部は悲しみから逃れるかのように『源氏物語』を書き始めた。式部の綴った物語は、多くの読者の心をとらえ、その評判はやがて一条天皇や道長の耳にも届く。
そして、この『源氏物語』をきっかけにして、式部は道長の娘で、一条天皇の中宮である彰子のもとで、仕えることになるのだった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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