直径20センチくらいのふくらみが全身のあちこちに広がる。裸になって背中を鏡に映す。見苦しさに鳥肌が立ち、ひとりぼっちが悲しくて、涙が止まらなくなる……。
そんな孤独な夜に、気をまぎらわせようと聴いていたのが、テレビから流れる昭和のヒットソングだった。私にとって昭和の歌は、陽気だけど悲しみの調べであり、静かだけど唯一頼れる友の声だった。
私は母に心配をかけたくなくて、ジンマシンのことをいえずにいた。だが、ストレスから、段々、チック症状が出るようになった。とうとう耐えきれなくなり、泣きながら電話をしたのをきっかけに、母は私を店に連れていくようになった。
お客さんの多くは、歳のころ50から60の男性だった。店にいる小学生がおもしろかったのか、わざわざ1曲100円のお金をはらって、私に歌を聞かせてくれる人たちがいた。
彼らは戦争を知る世代だった。戦前の曲や軍歌を聞かせてくれる人、占領期の流行曲を教えてくれた人もいた。みな酔っぱらって、ときに涙しながら、ときに誇らしげに、歌を、物語を、私に聞かせてくれた。私は彼らの古くさい歌が大好きで、いまでもたまに口ずさむ。
傷痍軍人のひどい演奏に母と叔母が涙を浮かべたワケ
もう1つ、忘れられない音楽の記憶がある。それは、駅の前、デパートの前で、戦争で大ケガをした「傷痍(しょうい)軍人」が演奏していたハーモニカとアコーディオンだ。
真っ白な衣装を身にまとった、足や手のない演奏者のかたわらには、大きな鍋が置いてあった。行き交う人びとがそこにお金を落とす。私の母と叔母も、額こそ少なかったが、彼らを目にするたびに寄付をしていた。
演奏技術はさまざまだった。あるとき、ハーモニカを口に当て、息を吸ったり吐いたりしながら、2つの音しかない「曲」を奏でる人がいた。子どもの耳で聞いてもわかる、ひどい演奏だった。
ところが、母と叔母は目に涙を浮かべながら、一言、二言、何かを彼に伝えてお金を鍋に入れた。私は「下手やんね!」と不平を口にした。二人は、私を諭すようにいった。
「あれがあの人のお仕事たい。体が不自由なとにね。立派な人やね」
いずれも大切な私の記憶なのだが、ふと、私の脳裏を、ある言葉がかすめる。
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