「昭和かよ!」
そうなのだ。私の記憶は昭和らしさに満ちているのだ。
思えば、ここ数年、昭和という言葉は、すっかり古くさいものの代名詞になった。若者だけではない。私たち世代のなかでも、否定的なニュアンスで昭和を用いる人が増えた。
母は昭和1桁の生まれ。少年時代の境遇もあり、私は友人以上に「昭和らしさ」を身につけている。平成生まれの人たちにしてみれば、私の話など、親父の昔語りなのかもしれない。
とはいえ、私にとっての昭和は思い出の宝庫だ。古くさいから、と簡単に切り捨てるわけにもいかないから、「昭和かよ!」という表現を聞くと、なんとも複雑な気持ちになる。
加速する世代間・世代内の分断
現代人が昭和を語るとき、戦前をさすことはあまりない。しかも、当たり前だが、昭和は元号だから日本に固有の時期をさしている。
おそらくは、奇跡的な復興を遂げたのち、悲しくも、長期にわたる停滞と没落の道をたどることになった戦後日本、失敗の象徴として、昭和は語られているのだろう。
戦後はいつ終わるのか。これは、繰り返し問われてきた問題だが、いよいよ私たちは、戦後の<切り離し>にかかっているのかもしれない。
「昭和かよ!」のひと語は、戦後日本の歴史をあざやかに切断する。返す刀で、「ダメだった人たち」を「あちらがわ」に閉じこめ、自分たちを新しい価値観で生きる、未来志向の「こちらがわ」の人間として描くことを可能にする。
一方には、世代間の意図的な断絶があり、他方には、レッテル貼りと近しい世代の否定、すなわち、他者の否定と自己の肯定がある。私に近い世代の人たちまでもが昭和を冷笑し、「こちらがわ」であることをほのめかす。こうして、世代間、世代内の分断が加速される。
だが、そもそも、否定によって定まる<己(おのれ)>、否定すべき価値でしか定義されない<己(おのれ)>とは、いったい何なのであろうか。「こちらがわ」で生きている人たちに、私たちは何者かであるという、集団内で共有された価値はあるのだろうか。
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