私は小学5・6年生の担当に加わった。合わせて10人ほどの子どもが通ってきていて、特に元気で騒がしい学年だった。
その中に、メイという6年生の女の子がいた。
にぎやかで自己主張の強い子が多い教室の中では、比較的落ち着いたお姉さんだった。話していても日本語には全くよどみがない。
学習面では国語に少し課題があったが、教室に来るとまじめに机に向かった。遠足や調理実習といった教室のイベントでは、年下の子の面倒をよくみてくれた。
タイ人の母親と日本人の父親をもつメイは、父1人、子1人の父子家庭で暮らしていた。メイの住むマンションは、教室が活動する子育てプラザから、わずか30メートルの距離にあった。玄関どうしが見える近さだ。
それでも父親の正三さんは教室が終わるころ、欠かさずメイを迎えに来た。スタッフが子どもを自宅へ送るのだが、正三さんは毎回プラザの前まで来て、「ほんまにありがとうございました」とにこやかに頭を下げた。
そして、メイと一緒に30メートルの距離を歩いて帰った。メイは正三さんが40歳を過ぎてから授かった子だ。かわいくて仕方がないようだった。
毎度あいさつをするうちに、私は正三さんとも顔見知りになった。ボランティアを始めて10カ月、ようやく新聞記事用の取材に取りかかったころ、お迎えに来た正三さんに思い切ってインタビューをお願いした。
正三さんは「いつもお世話になってるんで、私にできることなら」と控えめに快諾してくれた。
父娘で移り住んだ「島之内」
後日、近所の喫茶店で落ち合い、メイの生い立ちを聞いた。正三さんはたばこを片手に、2時間近く話をしてくれた。
メイはタイの首都バンコク近郊で生まれ、生後7カ月で来日した。日本へ渡る飛行機の中では、6時間ずっと泣きっぱなしだったそうだ。
幼いころのメイは、勝手に近所へ出歩いてしまうことがあった。
「空港の近くに住んでたけど、ずっと飛行機ばっかり見てる子でねえ。タイに帰りたいんかなあと、かわいそうやった」と正三さんは懐かしそうに記憶をたどる。
その後、両親は離婚することになり、タイ出身の母親がメイを引き取った。4歳からの2年間は主に母親の故郷であるタイ東部の田舎町で暮らした。
小学1年生になるタイミングで2人して日本へ戻ることになったが、母親の持病が悪化し、その秋に正三さんが引き取った。
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