不思議なほどに愛しすぎ、その思いが人を殺める 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑤

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「紙燭を持ってきておくれ。随身にも、魔除けのために弓を鳴らして絶えず声を出せと言いなさい。こんなひとけのないところで、よくそんなに熟睡できるな。さっき惟光が来ていたようだが、どこへ行った」と光君が訊くと、

「お控えしておりましたが、仰せ言もありませんので、夜明けにお迎えに参上すると申して下がりました」と管理人の息子は答える。

この息子は、いつもは清涼殿(せいりょうでん)の滝口で警備に当たっている武士なので、じつに慣れた手つきで弓弦(ゆづる)を鳴らし、「火の用心」とくり返し口にしながら管理人の部屋へと向かっていく。その声と弓弦の音が闇の中を遠ざかってゆく。光君は宮中を思い出し、今頃は殿上の宿直が名を名乗り出勤を知らせる名対面(なだいめん)の時も過ぎて、滝口の宿直が名乗りをしているところだろうと思いを馳(は)せる。まだ夜はそれほど更けていない。

部屋に戻り、暗闇の中、手さぐりでさがすと、女君はさっきと同じく横たわったままで、右近がそのそばでうつ伏せになっている。

「いったいどうしたというんだ。こんなにこわがるなんて馬鹿げている。こういう荒れてひとけのないところは、狐なんかが人を脅そうとして、薄気味悪く思わせるのだよ。でも、この私がいるんだから、そんなものに脅されるはずがない」と、光君は右近を引き起こす。

「もうどうにも気分が悪くなりまして、横になっておりました。それよりも、姫君がどれほどこわがっていらっしゃることでしょう」右近にそう言われ、

「そうだ、どうしたというのだ」と、光君は女に触れる。すると女はすでに息をしていない。揺り動かしてみるけれど、ぐったりとして気を失っているようだ。あまりにも子どもっぽいところのある人だから、物の怪に魅入られたのかもしれないと、光君は絶望的な気持ちになる。

まぼろしのようにあらわれた「女の顔」

管理人の息子が紙燭を持ってやってきた。右近も動けそうにないので、光君は几帳(きちょう)を引き寄せて女を隠し、

「かまわないから、もっと近くに持ってこい」と言いつけた。

警備の分際で主人の部屋に上がることなどもってのほかなので、彼は遠慮して長押(なげし)に上がることもできずにいる。

「いいから持ってこい、遠慮してる場合じゃない」

光君は言い、紙燭を受け取って女を見る。と、女の枕元に、夢に見たのとそっくりの顔をした女がまぼろしのようにあらわれて、ふっと消えた。昔話でこんな話を聞いたことがあるが、光君はただひたすらに薄気味悪く、おそろしい。しかしそれよりも、女がどうなってしまうのか気が気ではない。我が身の危険を考える余裕もなく、女に寄り添い、「おい、おい」と揺すぶってみたが、女の体はどんどん冷たくなって、息はとうに絶え果てている。光君は言葉を失う。どうしたらいいか、頼りにして相談できる人もない。僧侶がいればこんな時には頼りになるけれど……。さっきは、「この私がいるんだから」などと強がってみせたものの、まだ年若い光君は、女がむなしく息絶えてしまったのを見て取り乱し、女を強く抱きしめる。

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