管理人は、朝食にと急いで粥(かゆ)の用意をしたが、配膳する人の手も足りない。女を連れ出してくるなど、はじめての経験である光君は、そんなことも気にせずに「二人の仲はいつまでも……」と語らうことに余念がない。
日が高くなる頃に起き出して、光君はみずから格子(こうし)を上げた。庭はひどく荒れていて、人影もなく、遠くまで見渡せるほどだ。木立は気味の悪いほど古びていて、前庭に植えられた草木もうつくしいとはいえず、ただ荒れた秋の野である。池も水草で埋まり、不気味ですらある。別の棟に管理人一家が住んでいるようだけれど、そこはずいぶん離れている。
「薄気味が悪いところだな。でも、鬼でも私なら見逃してくれるだろうね」
光君はまだ顔を隠していたが、そのことを女が不満に思っているようなのに気づく。こんなに深い仲になってもまだ隠し続けているのも確かに不自然だと光君は思う。
いつまでも名前を教えてくれない
「夕露(ゆふつゆ)に紐(ひも)とく花は玉鉾(たまぼこ)のたよりに見えしえにこそありけれ
(夕べの露に花開くように、こうして紐をといて顔を見せるのも、通りすがりの道で会った縁ゆえですね)
露の光を近くに見て、さあ、いかがですか」
と言う光君に女はちらりと目をやり、
「光ありと見し夕顔(ゆふがほ)のうは露(つゆ)はたそかれどきのそら目なりけり
(光り輝いていると思った夕顔の花の露は、夕方の見間違いでございました)」
と細い声で言う。見間違いとはおもしろいと光君はひいき目に思う。心からくつろいでいる光君の姿は、物(もの)の怪(け)が棲(す)みつきそうな荒れ果てた場所だけに、何か不吉に感じられるほどうつくしい。
「いつまでも名前を教えてくれないのがつらいから、私もこれまで隠していた顔をこうして見せたんだ。あなたももう名前を教えてくださいな。どこのだれとも知れないのは、なんだか気味が悪いから」光君は言うが、
「海士(あま)の子なれば」と女は甘えた様子で答えない。
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