スタバ「巨大企業帝国」がはらんできた数々の矛盾 矛盾に満ちた経営が、独特な共同体を作り上げた

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「スターバックスの閉店に反対する人を見て、近所のカトリック教会が閉鎖されたときに起こった反対運動を思い出した」と友人が言った。その通りだ。スターバックスは俗人にとっての教会のようなものである。静かで「礼儀正しく」とか「瞑想しましょう」とか注意書きが壁に貼ってあるわけでもないのに、みんなそうしている。(『スターバックス再生物語』、p.209)

興味深いのは、スタバという空間が「教会」と並べられていることだ。ある時代まで「教会」というのは人々にとって癒しを与え、救いを与える場所であった。その教会と同じような機能がスタバに認められているのだ。

ここまでの議論をまとめてみよう。

スタバはその「矛盾」に満ちた経営スタイルで、そこに独特な共同体を作り上げている。それは結果的に生まれたものかもしれないが、その共同体は、そこを訪れる人に「癒し」を与え、精神的な支柱としての機能も果たした。

おりしもスタバがその店舗を拡大した1990年代は、「国家」や「宗教」といった、それまで人々の精神的支柱となってきたものの権威が失墜している時期であり、ある意味ではそのようなものの代わりに登場し、人々の受け皿になったのがスタバだったのではないか。

スターバックス・ネーションの誕生

ここで大胆な仮説を立ててみよう。

「スタバとは、一つの国家なのではないか?」

よく言われることだが、世界中どこでもスタバは同じ雰囲気で、同じ味を提供している。日本だろうが、アメリカだろうが、どこでもスタバのあの雰囲気は変わらないのである。ここには国境を越えた安心がある。まさに、スタバはスタバ自体が一つの「国」のようになっている。いわば、「スターバックス・ネーション」が誕生したのだ。

スタバのロゴである人魚のイラストは「国旗」であり、そのロゴが飾られたゲートを通るとき、私たちはスタバという国に入国している。パスポートは500円程度のコーヒー。あるいはフラペチーノでもいい。それを払う金銭的余裕さえあれば、誰でもそこに入国することが認められている。

店員たちは、スターバックス・ネーションの国家公務員だ。注文をするときの、あの、呪文のような言葉はスタバ特有の言語で、スタバ在住歴が長ければ長いほど、その言語のネイティブになってきて、こなれてくる。国内シェアNo.1のPCはもちろんMacのノートPC。

妄想がどんどん広がってしまうが、こんな風に「国家」に見立ててスタバを語ることができる。

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