M-1に愛され、翻弄された和牛の消えぬ「たられば」 解散の選択に影響したかもしれない「あの節目」

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そして再開されたM-1グランプリ2015に出場した和牛は見事決勝に進出し、6位という結果を残した。翌年から和牛の快進撃が続くわけだが、準優勝止まりでついに優勝はできなかった。

解散をめぐる報道で、川西くんが「M-1で優勝できなかった」ことで鬱状態になっていたという証言があった。

もしM-1が2010年で中断せず、2011年以降も続いていたなら、脂が乗り始めていた和牛が活躍したであろうことは想像できる。叶わない夢なのだが、それが見たかった。

この失われた4年がなければ、和牛はどうなっていただろう。決勝に残れなかったかもしれない。それはわからないが、考えずにいられない。コンビ結成10年までに必ず決勝に残り、優勝して、順調にスターダムにのし上がったことは間違いないと思う。

けれど残念ながらM-1は開催されなかった。それが今回の解散に微妙な影響を残していたかもしれない。

「いちばん強い漫才師」とは

ただ、ぼくはつねづね「M-1は決して最終ゴールではない、あくまで通過点だ」と言っている。最後に目指すのは、劇場に足を運んでくださったお客さんを笑わせることだと。

交通費や入場料を払ってまで劇場に来てくれるお客さんは、何よりも温かいし、誰より厳しい。家で寝転がってテレビを見ている人とは全然違う。そういうお客さんの前で日々闘っている漫才師はいちばん強い。

かつて、やすし・きよしで一世を風靡し、今も舞台に立ち続ける西川きよしさんはその筆頭だ。「稽古しとったらこわくない」と、いつも自信を語っている。あの暴れ馬の横山やすしさんを引っ張り、ときには尻を叩いて日本一の漫才師になった西川さんには、ものすごい粘りがあった。

もし和牛がM-1を最終ゴールだと考えずに、引き続き2人の気持ちを合わせて漫才に精進していれば、「解散」という結果には至らなかったかもしれない。それこそ日本一の漫才師になれた可能性だってあるのに。本当に残念でならない。

谷 良一 元吉本興業ホールディングス取締役

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たに りょういち / Ryoichi Tani

1956年滋賀県生まれ。京都大学文学部卒業後、81年吉本興業入社。間寛平などのマネージャー、「なんばグランド花月」などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを経て、2001年漫才コンテスト「M-1グランプリ」を創設。10年まで同イベントのプロデューサーを務める。よしもとファンダンゴ社長、よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務、よしもとデベロップメンツ社長を経て、16年吉本興業ホールディングス取締役。20年退任。大阪文学学校で小説修業、あやめ池美術研究所で絵の修業を始めるかたわら、奈良市の公益社団法人で奈良の観光客誘致に携わる。23年、雑誌『お笑いファン』で谷河良一名義で小説家デビュー。

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