捨阿弥はかねてより信長のお気に入りであることをいいことに、好き放題にふるまっており、反感を持つ者が多かった。利家からすれば、織田家のために斬ったようなものだったが、この不始末によって信長から謹慎を言い渡されてしまう。
それでも、利家はひそかに戦に参加して活動を続行。「桶狭間の戦い」や、美濃へ侵攻した「森部の戦い」で戦功を挙げることで、家臣団への復帰が許されている。利家は「槍の又左」といわれるほど槍の名手だった。
謹慎中には、心配した木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉から次のようなアドバイスを受けたという。
「信長様が出陣するたびに参加すること。ただし、手柄を立てても報告せずに、ちらりと姿を見せるだけにせよ」
利家はそんな助言を素直に実行して功を奏したことになる。人心の機微を理解する秀吉から学ぶものがあったことだろう。
永禄12(1569)年には、信長に命じられて、兄の利久に代わって家督を継いでいる。織田家の武将たちがお祝いにきたときに、そのうちの1人が「兄の利久殿は器量が小さく、武士として臆病だ」と悪口を言った。信長の判断が正しい、と強調したかったのだろうが、利家は同調することなく、こう言い切った。
「兄の利久は慎重で、誠実なので平和なときなら非常に役立つ。しかし、今は戦乱の世で非常事態だから、信長様は“かぶき者”の私に相続させたのだろう」
それを伝え聞いた兄は、弟の言葉に感謝し、補佐役をまっとうすることになった。優秀な人材を抜擢した際には、必ず不満を持つ者が出てくるもの。謹慎を経験したことで「外された者の気持ち」が利家には身に染みてよくわかったのかもしれない。
「賤ケ岳の戦い」では迷った末に秀吉側に
「賤ケ岳の戦い」においては、非情な決断を迫られることとなった。
本能寺の変によって信長が討たれると、織田家の有力家臣である柴田勝家と羽柴秀吉が対立。利家にとって勝家は「オヤジ」と呼ぶほど親しんだ大先輩で、一方の秀吉とは年齢も近く、妻同士の交流もあり、家族ぐるみで付き合う親友だ。
しかも、勝家も秀吉も、信長から謹慎処分を受けたときに、自分を励ましてくれた数少ない仲間だった。苦悩の末、利家は勝家の軍勢として参戦。その後、戦線離脱して、秀吉側についている。勝家を裏切るかたちとなったが、やむをえない決断だろう。
その後、秀吉から「加賀」の地を加増され、利家は金沢入りを果たす。それからは、豊臣大名としての地位を築き、徳川家康を牽制するほどまで力をつけている。
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