実質的に加賀藩が百万石に達したのは、2代目で利家の嫡男・前田利長の代になってからだが、利家は「加賀百万石」の基礎をつくったことになる。
秀吉の死後、大胆な行動に出た家康だったが、慶長4(1599)年3月11日に大阪に赴いて、利家のもとを訪ねている。利家が、伏見屋敷にいる家康を訪問したことの答礼であり、このときに両者は和解したと伝えられている。
家康と和解した1カ月後に死去
だが、このとき利家は余命いくばくもなかった。約1カ月後の閏3月3日に、利家は死去。秀吉の死から約8カ月後のことであり、享年62歳だった。
豊臣政権内で決定的な分裂が起きないように、重しとなっていた利家が亡くなったことで、急速にバランスは崩れていく。加藤清正、福島正則らが、石田三成を襲撃したのは、利家が死去した翌日のことであった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
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