秀吉の遺言破った家康が唯一気を遣った男の凄さ 家臣団の中でルールを破った家康だったが・・・

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だが、五大老のなかでも、家康が気を遣った人物がいる。秀吉が秀頼の後見の役目を託した前田利家である。利家は秀吉の死後、独自の動きをしだした家康と、それに反発する者たちの間に入って、なんとかバランスをとろうとしていた。

どうする家康 大河ドラマ 前田利家
前田利家像(写真: omega2000 / PIXTA)

秀吉亡きあと、キーマンとなった前田利家とは、どんな人物だったのだろうか。

信長が可愛がった「うつけ者」

江戸時代、外様でありながら百万石もの大名に上り詰めた加賀前田家。その祖とされるのが、前田利家である。

利家は天文7(1539)年、荒子前田家の当主である前田利春(利昌)の4男として生まれた。やがて利家は織田信長に小姓として仕える。利家13才、信長18才のときだ。

信長は幼少の頃は奇抜なファッションと奇異なふるまいで「うつけ」(ばか者)とされていたことで知られているが、利家もまた信長とつるみながら「うつけ」「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれていた。

加賀前田家といえば、伽藍(僧が集まって仏道を修行する場所)や名物裂(茶の湯道具の茶入や茶碗をいれる袋)などを見てもわかるように、豪華絢爛な文化を築いたことで知られる。「傾奇者」だった利家の趣味が受け継がれたといってよいだろう。

利家は幼名が「犬千代」だったため、信長は「犬」と呼んで可愛がったようだ。信長が「猿」と呼んだ秀吉と利家が親しい仲だったのも面白い。

信長への任官後に初陣を果たした利家は、まつと結婚。信長の親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」に所属するなど、結びつきを強めている。常識外れの信長がどんどん台頭していく様をそばで見ていたことは、利家自身がリーダーシップを取るにあたっても参考になったに違いない。

しかし、ある事件が起きる。信長の側に仕える捨阿弥(じゅうあみ)が面白半分に、利家の笄(こうがい:日本刀の鞘に取り付けられた小道具)を盗み出したところ、利家が捨阿弥を斬り殺してしまったのだ。

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