そして今、ついに秀吉の命が潰えた。家康は天下人になるべくひた走ったイメージがあるかもしれないが、ことはそう単純ではない。秀吉は自身の死を隠すようにと側近に命じていたが、すぐにそれを知った家康が何をしたか。
家康は、即座に嫡男である秀忠を江戸に帰している。慎重な家康がまず考えたのが内乱だった。跡取り息子を安全な場所に移すことを、家康は何よりも優先したのである。
台頭する家康を牽制した人物とは?
家康が内乱を恐れたのは、秀吉の後継者である秀頼が6才とあまりに幼いからにほかならない。秀吉は自分の死期を悟ると、慶長3(1598)年8月5日付で、家康ら5人に次のような遺言を残している。
「何度も繰り返すが、秀頼のことをお頼み申す。五人のしゅ(衆)、お頼み申す。詳しいことは五人の者に申し渡した。名残惜しくてならない、以上」
この「五人のしゅ(衆)」が「五大老」のことで、徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝らのことを指す。そして「五人の者」が「五奉行」にあたり、浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以らのことである。
五大老が政策を立てて、五奉行が実務を行う――。秀吉はそんな構想を描きながら、五大老と五奉行から誓詞、つまり、誓いの言葉を集めている。
何を誓わせたかと言えば、息子である秀頼への忠誠と、私党による権力闘争の禁止だ。このときに勝手に大名間で婚姻関係を結ぶことも禁じている。戦国時代における婚姻は同盟の締結にほかならない。政権への反逆につながると危惧したのだろう。
だが、秀吉の死後、家康は早々とその約束を反故にして、伊達・福島・蜂須賀との3家の婚約関係を結んでいる。ルール違反を見過ごすわけにはいかないと、家康は、自分を除く四大老と五奉行から、一斉に責め立てられることとなった。
一触即発のムードのなか、家康は伏見屋敷の防衛を強化。大軍勢を集結させて、権勢を誇示することで、四大老と五奉行を牽制。婚姻の件を強引に認めさせた。
秀吉は亡くなる前に、公職の政務を取り仕切る役目を家康に任せている。家康の実力を知っているからこそ、政権内にうまく取り込もうとしたのだろう。だが、家康からすれば、もう遠慮するつもりはなかった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら