秀吉に従った家康に課された「あるミッション」 任務のために17年住んだ浜松城を離れる必要も

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駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を領有するにあたっては、浜松ではなく駿河を拠点とするほうが望ましいだろうと、天正13(1585)年から駿府城の築城が開始される。浜松城を知り尽くす石川数正が出奔したことも、居城の移転を考えた理由ではないかとする見方もある。

どうする家康 浜松城
家康は浜松城から駿府城に居城を移した(写真:DAR Pictures / PIXTA)

しかし、居城の移転は以前から検討されながらも、ここになって急に進められたらしい。多くの家臣たちは自分の屋敷を移すことができなかったほどである。このタイミングでバタバタと移転が実行されたのは、家康が秀吉に恭順の意を示したことと無関係ではない。

家康に課せられたミッション

秀吉からすれば、ようやく自分に従うことを約束してくれたのだから、家康には大いに働いてもらわなければならない。11月4日、秀吉は越後の上杉景勝にこんな書状を送っている。

「家康が上洛してきて『すべて関白様にお任せする』と申してきた」

秀吉らしい誇張がなされている気もしなくはないが、おおむね間違いではない。家康の問題が片付いて安堵する様子が伝わってくる。秀吉は「家康の征伐を取りやめる」としながら、こんなふうに続けた。

「関東のことは家康と話し合い、諸事を一任することにした」

秀吉は関白になると、朝廷の権威をバックにしながら諸大名に向けて「私的な戦闘を禁じる」という停戦命令を出している。のちに研究者により「惣無事」と名づけられるこの政策を、家康は関東・奥両国において推進する任務を課せられた。

つまり、関東で相変わらず戦を繰り広げている、北条氏政と氏直の親子をなんとかしろ、ということ。そのためには、居城は浜松城より駿府城がよいだろう、という秀吉側の意向があって、家康は城を移転させることとなった。

秀吉への恭順から居城を移転させた家康だったが、その分、費用がかさむことは言うまでもない。そうでなくても、度重なる上洛に伴う諸費用がかかっており、このままでは財政が悪化してしまう。

そこで家康は緊急的な措置と、抜本的な改革の2つに取り組んでいる。緊急的な措置としては、天正15年と天正16年の2年にわたって、家臣の知行地、寺社領、蔵入地(直轄領)などに対して、納入された年貢から2%を徴収するというもの。「五十分一役」と呼ばれる課税であり、臨時的な増収策として行われることとなった。

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