「お酒が絡んで周囲としょっちゅうトラブルを起こす父親でした。兄の目の病気の手術代を父が飲み代に使ったことで私が3歳のときに別居に至り、父とはそれ以来顔を合わせていません。それから母親が繁華街の国分町でスナックを開業し、女手一つで兄と僕を育ててくれたのです」
兄と一緒になんとか公立の小学校・中学校に通ったものの、母子家庭で金銭的な余裕がなく、また家族に大卒者がいなかったため、大学に行くという意識はなかったといいます。
「兄はグレてしまったのですが、私は小・中で学級委員になるような真面目な生徒だったので、とりあえず地元の進学校である仙台第三高校に進学しました。通っていた高校は大学受験をして当たり前の環境でした。今まで大学の存在すら知らなかったのですが、高校に入って初めてそういう世界があるんだと知りました」
「入学後すぐのテストは学年320人中315位だった」というように勉強習慣もないまま進学校に進学した亮大さん。それでも、テニス部の活動に打ち込む傍ら、授業をしっかり聞いて3年生になる頃には真ん中より少し上くらいの成績を取れるようになります。
そんな彼が本格的に受験モードに突入するのは、部活動が終わった高校3年生の夏頃からでした。
高3の秋以降急速に成績を伸ばした
「ある日、進路指導室で本を探していたら、一橋大学の赤本を見つけました。家を出て東京に行きたいという願望がありましたし、自分自身が経済的に恵まれない家庭で育ったこともあって社会学を勉強したいと思っていたので、東京にあるその分野に強いこの大学で学ぶことにとても興味が湧いたのです」
当時の亮大さんの模試の偏差値は55前後。一橋大学に行くためには偏差値が10以上足りなかったため、無謀な挑戦のようにも思えるかもしれません。しかし、彼は秋以降急速に成績を伸ばして偏差値を上げ、判定をB~Aまで持ち上げました。
「経済的な理由で塾には通えませんでした。参考書だけの独学でしたが、私には自分で考えようという意識があり、わからないことをすぐに聞かずに自分で納得するまで考えて勉強していました。そのため、考える体力・思考力をしだいに身に付けていったのです」
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