「12浪しても関学目指す」彼を変えた運命の出会い 強い自己否定感を抱いても夢を追い続けた理由

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たぶちさんは、1982年に岡山県岡山市に生まれました。祖父母が教師だったこともあり、幼少期から熱心に勉強を教えてもらったそうです。

「勉強は好きではありませんでした。でも、幼少期に家族に一学年上の勉強を教えてもらっていたので中学校までの成績は悪くなくて、300人の中で最高12位を取ったこともありました」

高校は、進学校の岡山芳泉高校に進学します。しかし、そこで成績は一気に急降下しました。

「自分より勉強できる人がたくさんいて、燃え尽き症候群になりました。入学時は真ん中くらいの成績だったのですが、部活にも入らずテレビゲームをする毎日を送っていたこともあり、400人中370位くらいしか取れなくなってしまいました」

学校をズル休みしながらも、ギリギリで進級して3年生になったたぶちさんは「受験学年の模試の偏差値はずっと40台前半でした」と言います。結局、彼は現役時には受験をしませんでした。

「難関大学に行きたいと思っていましたが、勉強に身が入りませんでした。センター試験の存在すら知らなかったくらいです。成績・単位ともに卒業ギリギリだったため、そちらに意識が向いてしまっていました」

こうして何も進路が決まらないまま、高校を卒業したたぶちさん。

消極的な理由で浪人を決断

浪人を決断した理由は、「何もしないまま社会に出るのもよくないから」という消極的なものだったようです。

「この年は岡山進研学院という予備校に入りました。でも、結局勉強自体が嫌だったので、夏以降は親が家を出た時間帯に予備校から家に帰宅して、新聞や好きな政治の本を読んでいる生活になりました。今思うと恥ずかしいですが、ただ籍を置いていただけの状態でしたね」

「難関大」という憧れから、志望校を関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)に設定するもほぼ予備校に行かず、模試も偏差値40前半でE判定のままだったそうです。結局この年は関関同立を含む10大学を受けて、補欠合格の追手門学院大学以外は全滅でした。

「この結果を受けて危機感を覚えました。だから、2浪目はもっと上を目指そうと思い代々木ゼミナールに入りました。それで40前半だった偏差値が48くらいにはなったのですが、この年も気持ちが持続せず、夏以降の生活は前年度とほぼ一緒でした」

2浪目の結果も前年度と同じく、10校受けて追手門学院大学の補欠合格のみでした。この補欠合格が繰り上がったので、彼は2浪で追手門学院大学への進学を決めます。

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