太宰治、予想以上に多い「盗作疑惑」の興味深い中身 「生れて、すみません」の言葉も元ネタがある

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関根順子氏が『太宰治「女生徒」論 : 消された有明淑の語り』(「東洋大学大学院紀要」51巻2014年)に有明淑の日記と『女生徒』を比較した論文を寄稿しているのだが、その思想の差異を比較するとかなり面白い。

娘全体、希望が、思想が、すべて結婚にかけられてる/のだから。/今更ながら結婚なんてそんなに大きいものかしらと思う。(「日記」(六月二日))
子供、夫だけへの生活ではなく、自分の生活を持って生きて行くの/が、本当の女らしい女なのではないだろうか。(「日記」(七月三一日))
けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。女は自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。(『女生徒』)
この可愛い風呂敷を、ただちょっと見つめてさえくださったら、私は、その人のところへお嫁に行くことに決めてもいい。(太宰治『女生徒』角川文庫、KADOKAWA)

主張としては同じなのだが、女性の人生における「結婚」が希望になりすぎている現状をシニカルに見つめる有明の日記。

それに対し、太宰の小説は、「結婚」に至る運命を皮肉っぽく語りながら、しかしどこかそんな少女をロマンティックに描いている。そう、実際の「女生徒」であった有明の語りよりも、「女生徒」にロマンを託した太宰の語りのほうが、よっぽど乙女らしい言葉づかいなのだ。

自分の生きづらさをエンタメ化した?

太宰は随所に、元ネタの日記よりも、少女らしい言葉づかいを付け加える。まるで過剰な少女らしさをそこに忍ばせる。それは世間を嫌っていて、潔癖で、生きづらくて、皮肉っぽくて、それでいて寂しがりやな少女の言葉たちだった。

そう、日記と小説の差異を読んでいるとこう思えてくるのだ。

「もしかして、太宰治は、自分の生きづらさをエンタメとして書くために、少女の言葉を使ったのだろうか?」と。

そんな仮説と共に太宰の小説『女生徒』を読むと、たしかに少女の身体に仮託された、太宰の息苦しさが見て取れる。

次ページ実際に読んでみると…
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