関根順子氏が『太宰治「女生徒」論 : 消された有明淑の語り』(「東洋大学大学院紀要」51巻2014年)に有明淑の日記と『女生徒』を比較した論文を寄稿しているのだが、その思想の差異を比較するとかなり面白い。
主張としては同じなのだが、女性の人生における「結婚」が希望になりすぎている現状をシニカルに見つめる有明の日記。
それに対し、太宰の小説は、「結婚」に至る運命を皮肉っぽく語りながら、しかしどこかそんな少女をロマンティックに描いている。そう、実際の「女生徒」であった有明の語りよりも、「女生徒」にロマンを託した太宰の語りのほうが、よっぽど乙女らしい言葉づかいなのだ。
自分の生きづらさをエンタメ化した?
太宰は随所に、元ネタの日記よりも、少女らしい言葉づかいを付け加える。まるで過剰な少女らしさをそこに忍ばせる。それは世間を嫌っていて、潔癖で、生きづらくて、皮肉っぽくて、それでいて寂しがりやな少女の言葉たちだった。
そう、日記と小説の差異を読んでいるとこう思えてくるのだ。
「もしかして、太宰治は、自分の生きづらさをエンタメとして書くために、少女の言葉を使ったのだろうか?」と。
そんな仮説と共に太宰の小説『女生徒』を読むと、たしかに少女の身体に仮託された、太宰の息苦しさが見て取れる。
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