生きづらい、という言葉を、太宰は思春期の少女の言葉に託す。しかしこれは思春期の少女ではなく、まぎれもなく、太宰治というひとりの成人男性が語った言葉なのである。
今、苦しくてしょうがないのに、「山頂まで行けばいいんだから」「今はがまんしろ」と沢山の人に言われる、つらさ。「とにかく走れ」と言い続ける『走れメロス』の作家が書いたとは思えない文章である。
その言葉を太宰治はおそらく生身の自分として語ることはできず、結局、少女の言葉としてしか、世に出すことができない。「女々しい」とも思われそうな意見を、少女に託せば、発信することができる。『女生徒』は、そう解釈可能な小説なのだ。
自分の身体に託すことのできない本音を仮託していた
世間の道徳に反することをやらかして、心中を何度も失敗していたプライベートの太宰治。その一方で、小説家としてはキャッチーな文章が上手で、文章の切れ味が鋭くて、いまだに青少年の心をつかみ続けている作家、太宰治。
プライベートの自分と小説家の自分の狭間で、彼は自分の身体に託すことのできない弱い本音を、少女や愛人や青少年の作った言葉に、ある意味、仮託していた。
彼の本当の言葉は、男性の身体で語ることができなかったのかもしれないと思うと、なんだか太宰治の精神構造が見えてくる気がするのだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら