たまに、正しい日本語、というものを提唱する人がいるけれど、私は言語に正しさもなにもあるものだろうか、と思っている。なぜなら万葉集を見てみれば、漢字や日本語を面白おかしく使った表記というものが、奈良時代にすでに登場しているからだ。
五更之目不酔草跡これをだに見つついまして我を偲はせ
(夜明け前、目覚まし草としてこれを見てね、そして私を思い出してね)
……下の漢字と上の読みが、あまりにも一致しない!
「五更之目不酔草跡」がどうやったら「あかつきの めざまし草と」と読めるのだろうか。
① 「五更」は中国の表記方法で、午前3~5時のこと。だから「あかつき」
② 「目不酔草」は、「不酔」を「さまし」(酔いは醒めるものだから)と読ませて、「めざまし草」
③ 「跡」は、「あと」の最後の読みを使って「と」
「w」を「笑い」と読ませる手法と同じ
さて、こうしてみると、漢字の「意味」で表記している場合と「音」で表記している場合の両方があることがわかるのだ。つまり①の「五更」あるいは②の「不酔」は、漢字を意味で捉えている。でも、③の「跡」は、意味は関係なく音だけに注目して読みをつくっている。万葉集の時代、漢字は「意味」と「音」のどちらを捉えてもよかった。
あるいは③のように、万葉集には「漢字の音のうち、最後一文字のみを読む」という「略訓」と呼ばれる表記がたまにある。これ、現代でも実は私たちが無自覚に使っている手法だ。「w」と書いて「笑い」と読ませるネット用語があるのだが、これは「語彙の一音だけを使って表記する」、略訓の変化形だと私は思う。
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