「平安朝」という言葉に、どのようなイメージを抱くだろうか。
ほとんどの人は、『源氏物語』や『枕草子』に描かれているようなきらびやかな世界を思い起こすことだろう。金色の雲に包まれた優雅な庭園、簾の内側に隠れてひそひそ話す女たち、満月を仰ぎながら初恋に想いを馳せる殿方、勤行に勤しむ尼君……。現実とも虚構ともつかない物語の断片や絵巻から切り取られた名場面の数々が、次から次へと現代人の脳裏を過(よぎ)る。
しかし、それはあくまでも平安貴族の(頭の中の)理想にすぎず、実際面での日々の暮らしはそう雅ではなかったはずだ。たとえ金持ちに生まれたとしても、住んでいる屋敷は寒くて暗い、食べ物は質素で、誰だろうとつねに疫病と共存せざるをえなかった。にもかかわらず、芸術を通して垣間見える「平安朝」は、われわれの目にはキラキラと輝く、洗練された時代として映る。
「普通の人々」に微塵の興味も示さず
貴族プライドの権化とでもいうべき清少納言姐さんは「にげなきもの」という段で、次のように書いている。
釣り合わないもの。下々の家に雪が降りかかっている景色。そういう家に月の光が差し込んだりして、なんかもう台無し!〔…〕紅の袴を着た下衆女も耐えられない。近頃はそればっかりでうんざりだ。
姐さんにとって、貴族以外は人に非ず、庶民の姿をわずかに見ただけで虫唾が走るほどだったようだが、そうした彼女は特別にお高くとまっていたわけではない。自尊心が強かったというのはいうまでもないが、紫式部、和泉式部、赤染衛門など、同時代を生きたレディースたちもみんな、貴族同士の小さな社会にしか視線を向けようとせず、「普通の人々」に対して微塵も興味を示さなかった。
彼女らが書き残した作品には、恋に思い悩む殿上人の世話を焼き、休みなく動き回る侍女や女房は無数に登場するけれど、畑を耕す百姓、モノを売る商売人などはめったに姿を現さない。道をさまよう乞食や暗闇に隠れてじっと待っている泥棒なんてもってのほかだ。
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