以前「卍」が若者言葉としてはやった。これは「卍」という漢字の形がかわいいことと、「まんじ」という音の語呂がいいことの双方がはやった理由だろう。しかし考えてみれば、その2つが両立するのは、私たちが漢字を「表記」と「音」の双方で見ることができるからだ。
それは万葉集の時代から変わらない。万葉集は、前回見たとおり「馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿」という全部動物の漢字で表記するという「表記」と、いぶせくもあるかと読ませる「音」のどちらもで遊んでいる。あるいは今回みたいに「不酔」と書いて「さまし」と読むような、「意味」で遊ぶこともできる。
これが例えばひらがなやアルファベットだと、文字それぞれに音はあるがそれ単体じゃ意味はなさない。catもキャット(猫)という音と訓が固定されているし、「ねこ」という言葉の読み方は一通りしかない。
でも漢字は違う。ひとつの漢字でも音読みと訓読みの双方がある。それは万葉集の時代から続く「音と訓どちらを使ってもよし」という伝統のもとに成り立っている。
奈良時代にまでさかのぼっても、正しい日本語なんて実は存在しなかった。今から考えると驚くような、遊びに遊びを重ねて言語をつくってきたのだろう。
皮肉を込めた浮気をとがめる歌
ちなみに、ここまでは和歌の意味にまったく触れなかったが、意味をちゃんと見てみても面白い。
(夜明け前、目覚まし草としてこれを見てね、そして私を思い出してね)
おそらく何かの草を添えて贈られた歌だろう。
なかなか自分のもとへ通ってこない恋人に向かって、贈った歌。ということは、「ほらこれが、あなたの目を覚ます草ですよ。ちゃんと私のこと、思い出してね(……ていうか、夜に私のもとへ来ないなんて、眠ってるのかしら? 夜明けまでどこにいたのかしらね)」と、カッコの中が皮肉として存分に込められている歌なのだ。つまりは浮気をとがめる歌。
「私のこと、忘れないでね、思い出してね」と殊勝に贈った歌、とも解釈できるのだけど……。たぶんこの歌が古典の教科書に載ったら、高校の先生はそう教えるだろう。
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