山岸の従兄弟の寺内寿太郎は、詩人を目指していた。岩手に住んでいた彼は、「遺書」というタイトルで、この「生れて、すみません」という詩を作っていた。だが、その詩が世に出る前に、山岸を介して、太宰の目にとまった。山岸がこの詩について話していたとき、太宰は「なかなかいい句だね」とぽつりとつぶやいたという。そしていつのまにか太宰の新作『二十世紀旗手』の副題に使われていたのだ。
寺内は青い顔をして山岸のところへやってきた。「自分の句が太宰の新作の副題として、今月の『改造』に載っているのだ」と。山岸は苦笑しながら「君も、遺書までとられたのでは、もう自殺もできないだろう」「太宰が、遺書までとって人助けしたという解釈はできんカネ」と太宰をかばおうとする。
……甘い。甘すぎる。太宰に対してあまりにも甘いこの親友の存在が、おそらく太宰治という作家の寿命を延ばしていたことは確かなのだろうな、と私は評伝を読むたび思う。それがいいことなのか悪いことなのか、もはやわからないけれど。
太宰に問い詰めると…
山岸はこのことを太宰に問い詰めたらしいが、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」としれっと言うのであった。
山岸と太宰の仲だったら、会話に出た言葉はどちらが文学に使用してもいいルールになっていたらしい。いやいや、太宰、絶対に山岸の句じゃないってわかってただろう~!!と全力でツッコミを入れたいが、太宰の隠れ身の速さはすごかった。
結局、山岸は「太宰はこの日、一作だけではあったが、ある先輩作家の代作をやった話などをしたところをみると、このころの太宰には、すこしルーズなところもあったような気がするのである」とこのときの騒動を締めくくっている。少しどころかかなりルーズだろう。代作をやった相手って誰なんだ!と読者としてはツッコミが止まらないのだが……。
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