家康に怒り爆発「武田信玄」が軍を西に向けた背景 織田と武田は友好関係だったはずがなぜ西上?
それであるのに、信玄は突然西に軍を向けた。元亀3年(1572年)10月5日、織田信長が信玄に宛てた書状には「甲斐と越後の和睦調停を行っている」と書いており、信玄のため尽力していた。
しかし、その数日前には、すでに信玄は西上の途についていたのだ。東美濃の岩村城(岐阜県恵那市)を守る遠山氏は、自ら武田軍に降った(城には、武田方から派遣された信州の下条伊豆守が入ることになる)。
信玄が怒ったもう1つの理由
岩村城の遠山氏は、武田と織田に両属していたが、元亀3年8月、信長は庶兄の織田信広を派遣し、遠山一族の武田派を制圧。そのことも信玄は気に入らなかったはずだ。
信玄の西上には、織田との領土紛争を一挙に解決する目論みもあったであろう。信玄は信長と戦になることも覚悟のうえだった。信玄は家康と信長を相手に戦おうとしたのである。
・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017)
・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書、2022)
・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版新書、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックスPLUS新書、2022)
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