家康に怒り爆発「武田信玄」が軍を西に向けた背景 織田と武田は友好関係だったはずがなぜ西上?

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家康の抗議により、信玄は兵を遠江から引き揚げさせることを決めたが、家康の心中には、特にこのときから(信玄、油断ならぬ奴)という不信感が芽生えたのではないか。よって、年が明けてすぐに、信玄と敵対してきた上杉謙信と誼(よしみ)を通じようとしたのである。

度重なる交渉の結果、元亀元年(1570年)10月には、徳川・上杉の同盟が成立したとみられる。家康が10月8日付で謙信に起請文(誓約書)を出し「信玄と手切れをすること」「信長と謙信が親密になるように仲介すること」「武田と織田の間の縁組が破談になるように信長を諌めること」などを誓っているからだ。

元亀元年の夏、信長は、敵対する三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)や大坂本願寺との戦いに明け暮れていた。将軍・足利義昭から家康に対し、信長を助けるため、参陣するよう命令が出ている(9月14日)。家康はそれに応え、出兵する。

ちなみに、15代足利将軍・義昭から家康に宛てた書状は、宛先が「松平蔵人」となっている。「徳川」とも「三河守」とも記されていない。これはなぜか?家康の「従五位下・三河守」叙任や「徳川」改姓が、将軍空位時に近衛前久の主導により行われたこと、近衛前久が14代将軍・足利義栄の将軍宣下に関与していたことがその理由であろう。

義栄は、義昭の兄・義輝(13代将軍)を殺した三好三人衆に擁立された将軍であった。政敵ともいうべき義栄の将軍宣下に関わった近衛前久が進めた話など認める訳にはいかないというのが、義昭の想いだったろう。家康からすれば、とんだとばっちりである。

信長と敵対勢力の抗争が続く

信長と敵対勢力との抗争はさらに続き、元亀2年(1571年)9月、信長は、浅井・朝倉に与した比叡山延暦寺を焼き払っている。『三河物語』は、比叡山焼き討ちに関して、信長の「比叡山は僧侶の身でありながら、裏切って、私(信長)を殺そうとした。よって叡山を再興させない」との言葉を載せている。

『信長公記』は、比叡山が浅井・朝倉に加担したこと、僧侶が禁制の魚鳥を食い、女人を山内に引き入れているなどの悪逆が、比叡山攻めの要因となったと記す。

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