家康に怒り爆発「武田信玄」が軍を西に向けた背景 織田と武田は友好関係だったはずがなぜ西上?

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さて、武田信玄は、駿河国に点在する北条方の城を次々と攻め、国内への影響力を強めていた。元亀2年(1571年)、信玄は遠江国の高天神城(掛川市)や東三河にまで進出してきたといわれてきたが、その根拠となる古文書の発給年が天正3年(1575年)とされたことによって、元亀2年に武田軍は三河まで進出していないという説もある。

武田氏と北条氏は駿河等で合戦を繰り広げてきたのだが、元亀2年、一転して同盟を結ぶことになる。越後の上杉氏との同盟に積極的であった北条氏康が死去したからだ。

後継の北条氏政は、正室が信玄の娘(黄梅院)であり、元来、越後との同盟に乗り気ではなかった。北条氏は上杉と手を切り、武田と結んだ。駿河国も武田が支配することが取り決められ、信玄は後方の憂いなく西上できる態勢が整った。

元亀3年(1572年)10月3日、信玄は甲府を発し、西上の途についた。ではなぜ、信玄は軍勢を西に向けたのか。長く主流となってきたのが、上洛説である。

元亀2年頃より、信長と対立する将軍・足利義昭が盟主となり、越前の朝倉氏、近江の浅井氏、大坂の石山本願寺が加わる「信長包囲網」が形成された。信玄もそれに加わり、信長を撃破し上洛しようとしたとの説だ。

しかし、義昭が反・信長の態度を明らかにし、浅井・朝倉らに書状を出したのは、元亀4年(1573年)2月のことといわれており、信玄西上時には、義昭が盟主となるような事態ではなかったのである。

家康への敵対心と憤り

では、信玄は何のために、兵を西に向けたのか。信玄は遠江への出兵について、書状のなかで「五日の内に天竜川を越え、浜松に向け出馬し、三年間の鬱憤を晴らす」(元亀3年10月21日)と述べているので、1つは、家康への敵対心と憤りであろう。

信玄の家康への憤りが何かについては「家康が今川氏真と和議を結んだこと」など諸説あるが、元亀元年(1570年)に、越後の上杉氏と家康が同盟を結んだことが真因であろう。家康に打撃を与えて「鬱憤を晴らす」というのが、信玄の西上の眼目であった。

家康に痛撃を与えた後、信玄は信長との対決を考えていたはずだ。盟友である家康を叩き潰されて、信長が黙っているはずはないし、何より、織田と武田は友好関係にあったのだ。

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