松平家が代々「強力な家臣団」を率いた背景事情 歴代当主に継承されてきた3つの大切な要素

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彼は「情け深い事績など何1つなかった」と評され、家来も民衆も恐れて、心を寄せる者がいなかったとのこと。侍たちの心もバラバラとなり、ついには、信忠隠居を求める声や、出仕を拒否する者も現れる。

「主君を取り替えることなどできない」という家臣と、隠居を求める家臣の声がぶつかり、家中が二分する。これを聞いた信忠は、首謀者を手討ちにしたこともあったようだが、家臣があまりにも従わないので、自ら隠居を決断する。

信忠は、松平家に連綿として継承されてきた3つのもの、1つは「武芸」、2つは「家臣への情け」、3つは「慈悲深さ」を欠く当主とされている。

現代のリーダーシップ論にもつながる要素

見方を変えれば、前述の3つの要素を兼ね備えた当主こそ、真のリーダーとして、三河武士に仰ぎ見られたのである。それらの要素は、現代のリーダーシップ論にもつながるものであろう。

さて、信忠は子の清康に家督を譲る。清康は家康の祖父である。清康は『三河物語』によると「背は低かったが、目は澄み、その姿形は立派」だったという。戦にも強く、誰にでも慈悲をかけたそうだ。

だから、家臣たちも一命を捨てて、屍を大地に晒した。清康は、自らのお椀で家臣に酒を飲むことを勧め、家臣らが恐縮していると「侍に上下の差はない。許す、飲め」と分け隔てのない態度で接したようだ。ちなみに、大久保彦左衛門の父・忠員は清康に仕えている。

大久保彦左衛門曰く、松平家には「三ご譜代」というものがあり、それは「安城ご譜代」「山中ご譜代」「岡崎ご譜代」の3つ。安城ご譜代とは、松平信光・親忠・信忠・清康・広忠と、昔から代々、松平家に奉公してきた家のこと。山中ご譜代と岡崎ご譜代というのは、清康が14、15歳の時に攻められ降伏して、従った家臣のことである。

清康はまず、山中城を攻撃し、これを従わせたので、山中(愛知県岡崎市)は「山中のご本領」と言われた。清康は、10代前半で当主の座につき、戦の日々を重ねた。

他人の名誉を傷付けず、家臣を罰することもなく、戦上手でもあったので「清康が30歳まで生きていたら、天下をたやすく手に入れられたであろう」(『三河物語』)と評されたほどだ。だからこそ、清康が誤解により家臣・阿部弥七郎に斬り殺されたことは、特に譜代衆にとって残念であ
っただろう。

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