松平家が代々「強力な家臣団」を率いた背景事情 歴代当主に継承されてきた3つの大切な要素
清康の後は子・広忠(家康の父)が継いだが、この広忠も『三河物語』によると「慈悲や情け、哀れみ」の心を持った当主だったようだ。
その広忠の子が、家康であるが、家康と家臣団との関係については、今後、詳述する機会もあるだろう。
徳川家と家臣団とのつながりを考えるうえで、欠かせないのが、酒井家である。酒井家の祖・広親は、松平親氏(松平家の始祖)の子と言われている。つまり、酒井家は松平(徳川家)と親族・同祖ということである(もちろん、同祖説を偽りと捉えることもできようが、『三河物語』に記されていることでもあり、一概に否定はできないだろう)。
大久保彦左衛門の大久保家は、元々は関東の豪族・宇都宮氏の庶流(武茂氏)であった。南北朝時代に、三河国に移住してきたという。よって、大久保家は「安城ご譜代」に数えられている。
本多忠勝で有名な本多氏は、その先祖は豊後国日高郡本多郷を領していたと言われる。南北朝時代に、尾張国の2つの郡の地頭となり、その後、三河国に移り住んだ。本多氏も「安城ご譜代」の一家である。
家康の家臣たちはどんな人だった?
家康が継いだ松平家には、慈悲深き先祖とその家臣たちとの強い結び付きがあった。そのことは、家康にとって、何物にも代え難い宝物であったろう。家康の時代に取り立てられた家臣には、榊原康政と井伊直政がいる。
榊原康政は、家康が13歳の時にその小姓となった。榊原家は、元来、酒井家に仕えた家であって、松平家から見たら、陪臣(家来の家来)であった。
井伊直政は、今川家の重臣・井伊直親の子として、遠江国・井伊谷に生を受けた。直政が家康に仕えたのは、天正3年(1575)と、これまで見てきた他の家臣と比べたら遅い。しかし、直政は小姓から出発し、その忠義と武勇によって、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)に数えられるまでに出世するのである。
三河国を平定した徳川氏の家臣団編成は「三備」というものであった。これは、東三河は酒井忠次が、西三河は石川家成が中心(旗頭)となって、その下に松平一族や国人衆が置かれるというものである(また、家康の下には、鳥居元忠・本多忠勝・榊原康政・大久保忠世といった旗本武将が配された)。この頃の徳川氏には、「三河三奉行」という職も置かれていたという。
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