「あっ、オダジマタカシさんね。えーと、学校はどこを出てるんだっけ?」
「えーと……あれ? 忘れちゃいました」
「ん? 忘れた?……まあいいか。じゃあ、好きなサッカーチームはどこ?」
「はい、浦和レッズです」
とか、こういう会話が一流企業の採用面接でかわされるようになれば本物なのだが、おそらくそんなことはあり得ないだろう。
忘れることは、怒ることや告発することよりも、ずっと難しいことだからだ。
あるいは、学歴は、失恋みたいなものなのかもしれない。
別れた女を憎んだり怨んだりすることは、ごく簡単なことだ。というよりも、そうせずにいることの方が難しいのかもしれない。
また、別れた女に未練を抱くことも、ごくごく容易なことであり一般に広く行われていることだ。場合によっては、怨みかつ憎みつつ未練を抱くことだって、そんなに難しいことではない。いずれにしても、別れた女というのは、男にとって、こだわってみたところでどうにもならない取り返しのつかない過去である一方で、自らの血肉に刻まれた経験でもあるわけだから。
であるからして、別れた女を忘れるということは、これは簡単なことのようでいて、ほとんど不可能に近い。
ふられたのでもふったのでも、あるいは片想いに終わったのでも、形はどうであれ(って、このあたりの事情も学歴と人間の関係に似ている)失恋は、忘れられるようなものではないわけだ。
とすれば、
「忘れちまえばいいだろ」
というありがちなアドバイスは、一見適切なようでいて、単におざなりな捨てゼリフであるに過ぎない。
「忘れちまえよ」
と言われて、はいそうですかと忘れることができるぐらいなら、誰も苦労はしない。
世間がいつまでも忘れてくれない
私自身の学歴について言うなら、おそらくそれは、
「いけ好かないと思いつつも、苦労して口説いた女がいて、付き合ってみると、案の定これが世にもいやらしい腐れアマで、結局、4年間付き合ったあげくになんとか別れてはみたものの、いつまでたってもイヤな思い出が消えない」
といったぐらいの話になる。
なんだかイヤな話だ。
しかも、この話のイヤらしさは、それにとどまらない。なんと、世間の連中が、いつまで経ってもオレがその女と付き合っていたことを忘れてくれない。
「ワセ子さんと付き合ってたんですって?」
ああいやだ。