が、イヤだとかそういう問題ではない。
実際には、私は早稲田大学を出たということの恩恵を色々な場面で、痛いほど味わっていて、そのたびにちょっと複雑な思いを抱いていたりもするからだ。
たとえば、妻と結婚する時だってそうだった。
私は「ライター」ということになっていたが、単にいくつかの雑誌に記事を書いた経験があるというだけで、別に業界で名前が売れていたわけでもないし、食えていたわけでもなかった。
とすれば、
「○子ちゃんと結婚するのは、どんな人なの?」
というヨメさんの親戚筋の質問に対する答えは、「ライター」であってはいけなかったことになる。
で、答えは
「早稲田を出た人」
ということになった。
三十ヅラをさげた男の肩書きとしては、なんだかヒトをばかにしたような話に聞こえるかもしれないが、これはこれで案外通用したのだ。
それで、全員が満足したのである。
肩書きにオーラを与えるのは学歴
これは本当の話だ。
「早稲田の人ですって」
「まあ、それは素晴らしい」
「じゃあきっとアタマがいいのね」
ということになる。
現状がどうであれ(売れないライターとかいうモノらしいけど)、その人間には将来性があり、自分たちの家系にアタマの良い血筋を分かち与える存在であるということになる。
というよりも、「ライター」という言い方の貧乏クサさが、「ワセダ」によって、かなり軽減されるわけだ。
「文章を書いているヒト」
「小説家のタマゴ」
「著述業」
と、まあ、好意的に見ればこういうことになるが、もし仮に私の学歴が高卒だったりすると、同じライターでも、見方はちょっと違ってしまうだろう。
「フリーライターとかいうのをやってるらしいわよ」
「収入の方は安定してるのかしら」
まあ、そういうことだ。
結局、どんな職業でも、好意的に見ようとすればそういう見方はできるわけで、逆にアラ探しをすれば、それもできる、と。
で、最終的に「ライター」でも「営業マン」でも「自営業」でも良いのだが、そういう人々の肩書きにオーラを与えるのは学歴だということだ。
たとえば、結婚した当時、私は3人で株式会社を作っていたのだが、これだって言いようによっては「青年実業家」ということになる。