建前論を言えば、サラリーマンならいざ知らず、原稿書きの仕事に学歴もへったくれもないはずだ。原稿の善し悪しや出来不出来は、別に著者の経歴なんかを知らなくても、読めばわかることだ。書いた人間が東大を出ていようが、中卒であろうが、面白い原稿は面白いし、つまらない原稿はつまらない。
が、それでも、著書には「著者略歴」が不可欠で、その「著者略歴」には、学歴が不可欠なのだ。こんなことを言っている私自身が、本を買うと必ず「著者のプロフィール」を見ずにはおれない人間ではある。いや、私個人は、著者がどういう大学を出ているからということに影響されて文章を読んでいるつもりはない。ある文章を書いた人間がどの大学を出たのであれ出ていないのであれ、良い文章は良いし、悪い文章は悪い、と、私はそう考えている。
が、文章の読み方には影響を受けないまでも、やっぱりどういうわけなのか、著者の学歴を知らないと気持ちが悪いのである。
「なるほど慶應か」
「へー、この人はやけにペダンチックだけど、高卒なんだ」
「おお、東大の医学部」
と、なんだか、学歴を知ると、落ち着くのだ。
これは、厳密に学歴でなければならない。
「愛車はMG。70年代の北欧プログレッシブロックを好む。愛猫『ククリ』は当年14歳になる」
みたいなプロフィールを書く著者もいて、それはそれで貴重な情報として参考にさせてもらうのだが、それだけだと
「で、大学はどこなんだ?」
と、必ず疑問が残ってしまうのである。
因果なことだと思う。
学歴観を変えるためには、その前に日本人の頭の中身を総取っ換えして、この国の社会構造を根底からひっくり返さないとダメなのかもしれない。
何がわかったんだ?
道は遠い。
赤ん坊の頃から知っている従妹(いとこ)が結婚するという。
私はおふくろに尋ねる。
「で、相手はどんな人なの?」
おふくろは心得ている。
「慶應の経済を出て、なんだか商事だとかいった会社でなんだかをやってる人らしいわよ」
なるほど。慶應の経済か。
私はわかった気になっている。
おい。
何がわかったんだ?
わからない。
幸せって、何だろう。
わからない。
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