「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯 何もかも順調に見えた松平家を襲った悲劇とは

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愛知県岡崎市にある竹千代像ベンチ(写真:chieko.k/PIXTA)
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がスタートする。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』の第2回は、家康の祖先がどういう人物だったのかについて解説する。

家康の運命に大きな影響を与えた祖父

徳川家康は1603(慶長8)年、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。その後、将軍職は徳川家で代々引き継がれていく。初代の家康に続く2代将軍には家康の息子である秀忠が、3代将軍には家康の孫にあたる家光が就いている。

その一方で、家康が生まれた松平家においては、初代からどのように当主の座が引き継がれていたかは意外と知られていない。なかでも、家康の運命に大きな影響を与えたのが、祖父の松平清康である。清康は、松平氏の勢力を急速に拡大させ、本拠地を岡崎に移した。しかしながら、意外な死を迎えることになり、松平家に暗雲が漂うことになる。

松平氏の初代にあたる松平親氏から、7代目にあたる清康までの系譜を解説しながら、家康が背負わされた運命について考えていこう。

松平氏初代の松平親氏は流浪の僧、あるいは旅人として、三河国加茂郡松平郷(豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉家に婿入りを果たした。家に出入りするうちに、娘と深い関係になったらしい(『徳川家康の祖先「愛知」に地盤築いた知られざる訳』参照)。

その後、松平郷を引き継いだ親氏は、同じく流浪の身である弟の松平泰親と手を組み、中山七名(「 中山十七名 」とする史料もある)と呼ばれる諸豪族を支配下に置く。親氏が急死すると、泰親がその後を継ぎ、2代目となる。

ちなみに、泰親については『三河物語』では親氏の「子」としているが、『松平氏由緒書』では親氏の「弟」とされている。親氏が亡くなったとき、息子である信光はまだ幼少で継ぐのが難しかったのだろう。『三河記摘要』にあるように、泰親は「実は弟だけれども、遺言によって家を継いだ」というのが、妥当な線ではないだろうか。

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