「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯 何もかも順調に見えた松平家を襲った悲劇とは

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大永3(1523)年に松平信忠が隠居すると、嫡男の清康はわずか13歳で家督を引き継ぎ、松平家7代目当主となった。弓矢の達人だったらしく、『三河物語』では「戦をしてもこの上をゆく人はなかった」と記されている。それでいて、身分に関係なく慈悲をかける人格者で、家臣からも慕われていたらしい。

清康の実力は対外的にもすぐに発揮される。信忠から家督を継いだ翌年には、対立していた岡崎松平家の信貞のもとへ攻め混んで、山中城を乗っ取ってしまい、さらに岡崎城も明け渡させた。享禄3(1530)年頃、竜頭山にある現在の場所に、新たに岡崎城を築いて本城としたと言われている。

さらに、小島城(西尾市)や東三河の宇利城、吉田城(豊橋市)なども攻略するなど、順調に領地を拡大していく。そのうえ、山間部にいる奥平、菅沼、設楽、西郷らの諸氏も従わせることに成功した。

三河一国をほぼ支配下に置いた清康。次に意識を向けたのが、隣国の尾張で勢力を拡大する織田信秀だ。天文4(1535)年、勢いに乗る清康は信秀に仕掛けていく。

清康は守山城に着陣。あらかじめ、甲斐の武田信虎や、美濃三人衆とされる稲葉良通、安藤守就、氏家直元らとは連携をとっている。準備は万端だ。清康は1万あまりの軍勢を率いて尾張に侵攻していく。

何もかもが順調かに見えた。だが、清康は突如として命を落とすことになる。いったい、何が起きたのか。

叔父の松平信定との確執が招いた悲劇

当時、清康は叔父の松平信定と確執があった。信定は織田信忠と縁があったために、このときの出陣にも反対。参陣することはなかったという。

そんななか、「阿部定吉が信定らと内通しているのではないか」といううわさが流れ出す。定吉は清康の家臣であり、つまりはスパイだと疑われていたのである。

不安に駆られた定吉は、息子の弥七郎に「清康に成敗されるかもしれない」とこぼしていたという。このことが翌日、思わぬ悲劇を招く。

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