「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯 何もかも順調に見えた松平家を襲った悲劇とは

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3 ✎ 4 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

2代目の泰親は松平郷を出て、岩津の城を奪って居城とした。泰親の隠居と同時に、3代目の信光に岩津城が与えられることとなる。親氏の子にあたる信光は、大給(豊田市)や保久(岡崎市)を攻め取っただけではなく、寛正6(1465)年には額田郡一揆を討伐。さらに安城城や岡崎城も奪取したと伝えられている。

信光が安城城を攻めた方法は、なかなかユニークなものだ。『三河物語』によると、きらびやかな踊りの行列をつくって、安城から1.5キロメール離れた西の野へ向かわせた。行列が楽しげに太鼓や笛、鼓を打ちはやすと、人々はこう興奮したという。

「何かはよくわからないが、西の野を通る踊りはおもしろいそうだ。さあ見に行こう」

こうしてはいられないと城も町も明け渡して、男女みなが西の野に向かったところを、信光は狙っていたらしい。すぐさま城下に入っていき、そのまま奪ってしまったのだという。

家康は後世からしばしば「ずる賢いタヌキ」として描写されることがある。だが、戦わずして勝つ、もしくは自軍の犠牲を最小限にして勝つ策略があるならば、実行しない手はないだろう。遠い祖先の松平信光の策士ぶりが、そのことを如実に伝えてくれている。

40人以上の子どもを残した松平信光

85歳まで生きたとされる信光は、実に40人以上の子どもを残した。そのため、松平家は分派していく。そのなかでも、のちに徳川家へと連なるのが安城松平家である。信光の3男(4男とする説もあり)にあたる親忠が、安城松平家の初代となった。のちに、安城松平家が松平家惣領となるため、親忠は松平家第4代目に数えられることになる。

親忠といえば、井田野合戦で活躍したことで知られる。明応2(1493)年、上野城の阿部孫次郎や挙母城の中條出羽守、寺部城の鈴木日向守などの豊田市各地の豪族が来襲。ピンチを迎えるが、4000の兵の相手に対して、半分の2000の兵で井田野の地で撃退したという。

次ページ5代目はどんな人物だった?
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事