生まれる前から運命づけられた「波乱の人生」
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」
しばしば歴史人物は後世から「こんな人物だったのではないか」という期待を背負わされる。その結果、言ってもいない「名言」を創作されてしまうことが珍しくない。家康の言葉として伝えられた冒頭の言葉が、好例だろう。これは家康による遺訓ではなく、幕末期に幕臣の池田松之介によって創作されたものだ。
しかし、この遺訓が本人のものだと信じられるほど、確かに家康の人生は重荷を背負わされたものだった。波乱尽くしの生涯は、家康が生まれる前からすでに運命づけられていたといってよい。
天文4(1535)年12月5日、家康の祖父にあたる松平清康が誤解によって、家臣の息子に殺されてしまう。のちに「守山崩れ」と呼ばれる事件である。わずか10歳の広忠が後を継ぐことになり、岡崎家は失速。対立していた叔父の松平信定に岡崎城を追われてしまう。広忠は今川氏を頼るほかはなかった(前回記事『「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯』参照)。
家康の父にあたる広忠が、今川氏の庇護に置かれたことで、のちに生まれる家康の幼少期に多大な影響を及ぼすことになる。その1つが、家康の父と母の離縁である。
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