そんななか、天文18(1549)年、父の広忠は家臣の岩松八弥によって殺害されてしまう。つまり、家康は祖父も父も、ともに家臣や家臣の親族など味方の手によって、命を奪われたことになる。のちに、家康が家臣たちの動向にひときわ目を配ったのは、当然のことかもしれない。
広忠の死によって、本来ならば家康が岡崎城の主となるはずだ。しかし、家康は織田家に売り飛ばされてしまっている。今川義元は太原雪斎を岡崎城に派遣。支配下に収めている。
さらに、安城城を攻略すべく、三河に大軍を送り込んだ義元は、織田信秀の子、信広をとらえることに成功。捕虜の交換を持ちかけて、信広を解放するかわりに、家康を今川方へと取り戻している。
今川義元が烏帽子親に
それでも家康は岡崎城に戻ることは許されず、そのまま駿府へ。自分を支配する相手が織田家から今川家へと変わっただけで、家康は相変わらず人質としての生活を余儀なくされている。
ただし、戦国時代の「人質」は、現在の言葉が持つイメージとは異なり、粗末に扱われることはなかった。むしろ、厚遇されていたといってよいだろう。とはいえ、故郷から離され、親にも会えないつらさは、筆舌に尽くしがたいものがあったに違いない。
天文24(1555)年、14歳の家康は元服。今川義元が烏帽子親となり、義元の一字「元」を与えられることになる。家康はこのときから、竹千代ではなく「元信」と名乗ることになる。
「松平元信」として、今川家配下の一武将としての人生が始まった家康。永禄3(1560)年5月19日、桶狭間の戦いが起きると、その運命がまた大きく動き出すことになる。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
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