幼い家康は母と離れ離れになり、祖父・清康の姉にあたる於久(随念院)に育てられることとなったが、苦難はまだ続く。家康は6歳にして、駿府へと人質として送られることとなったのである。
その背景には、天文16(1547)年に、尾張の織田信秀が三河に侵攻したことがある。安城城を落とされてしまい、広忠の家臣のなかには、織田家につくものが現れ始める始末だった。
迫りくる信秀に対抗するには、今川家との関係をより強化するしかない。そこで今川義元のもとにわが子の家康(当時は竹千代)を人質として差し出すことを、広忠は決意している。
妻と離縁して、さらにわが子を差し出す――。そこまでしてでも今川家の力を借りようとした父の政治姿勢によって、幼い家康は28人のお伴とともに岡崎城を発ち、駿府へと向かう。
ところが、駿府へ向かう道中で、思わぬトラブルが起きる。家康を駿府の今川家に送り届けるはずだった田原城の戸田康光が、織田家に寝返ったのである。戸田は、幼い家康を今川家ではなく、織田家へと連れていってしまう。
家康が売り飛ばされた額は1億円?
家康の父、広忠は家康の生母である於大と離縁後、戸田康光の娘と再婚。継室として迎えている。そのため、戸田康光の裏切りについて『三河物語』では、次のように記されている。
「田原の戸田康光は、広忠にとっては舅、竹千代様にとっては義理の祖父にあたる。それなのに、康光は織田信秀に永楽銭千貫目で、竹千代様をお売りになった」
一貫目は現在の紙幣価値で約10万円だったと考えると、約1億円で家康は売られてしまったことになる。一説には「百貫目」ともいわれており、その場合は1000万円で取引されたことになる。
竹千代を奪った織田家からは、幾度となくアプローチされるが、広忠は「織田家に差し出したのではない」とあくまでも今川家につく態度を貫いた。そんな広忠の姿勢に今川家は「織田方と組まないことで侍の義理がよくわかった」と感心している。このあたりの肝の据わり方は、家康にも遺伝しているのではないだろうか。
広忠を助けることを決めた今川義元は、田原城に太原雪斎や天野氏らによる軍勢を差し向けて、戸田氏は滅亡。その後も、今川家と織田家は何度となく激突することとなる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら