織田へ金で売られた「徳川家康」不遇すぎる幼少期 3歳で父母が離縁、6歳から人質生活に突入

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「守山崩れ」から8年後の天文11(1543)年、のちに天下人となる徳川家康が、岡崎城内で誕生した。12月26日寅の刻、つまり、午前4時ごろだったとされている。幼名は竹千代。父の広忠が18歳のときの子である。

16歳で家康を生んだ母は、刈谷城主である水野忠政の娘、於大(おだい)だ。広忠とは、いわゆる政略結婚である。というのも、当時、東では駿河守護の今川氏が権勢を誇り、一方の北では、尾張守護の斯波氏と織田氏が勢力を伸ばしていた。そんな状況のなか、水野忠政は、緒川や大高などの知多半島北部、そして三河刈谷を支配していた。

「今川方の岡崎城主である、松平広忠と手を結びたいものだ」

そう考えた忠政が娘の於大を広忠へ嫁がせることになった。結婚してから1年後に家康が生まれたことになるから、政略結婚としては望ましい展開になったといえるだろう。

家康誕生の翌年に忠政死去、その息子は織田家に加勢

ところが、目まぐるしいスピードで状況が変わるのが、乱世というもの。家康が誕生した翌年に忠政は死去。忠政の跡を継いだ息子の信元があろうことか、織田家のほうについてしまった。

これでは、今川方である松平広忠の立場はない。そうでなくても、 広忠の叔父にあたる信孝が、松平氏の家臣たちに追い出されたことで、織田信秀のもとに走っている。そのうえ、さらに自分の妻の兄が織田家についたとなれば、今川家としても黙ってはいないだろう。

こうして於大は、自身にはまったく責任がないにもかかわらず、夫と離縁することとなった。夫との別れももちろんだが、一番の悲しみはわが子、竹千代と離れることだったに違いない。このときに竹千代はまだ3歳。かわいいさかりに母と子は時代に翻弄され、引き離されてしまう。

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