「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯 何もかも順調に見えた松平家を襲った悲劇とは

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4代目の親忠の死後は、生前に家督を継いでいた嫡男の長忠が、安城松平家2代目となり、のちの松平家5代目当主となる。従来は「長親」とされることもあったが、今は「長忠」とするのが一般的である。

長忠もやはり過酷な戦に巻き込まれた。駿河今川氏が三河に侵攻を開始。仕掛けてきたのは、駿河国の戦国大名である今川氏親と、その後見人で「北条早雲」としてのちに知られる伊勢宗瑞だ。永正3(1506)年には東三河の吉田城が攻略されてしまい、さらに永正5(1508)年には西三河にまで攻め込まれ、岩津城が襲われる(永正三河の乱)。

前述したように、松平家は信光が多くの子を残したために庶家に分派したが、そのなかの岩津松平家の一族が、窮地に立たされることとなった。

そんななか、長忠は救援に向かい、わずか500の手勢で奮戦。今川軍の撃退に成功した。だが、岩津城は陥落させられて、岩津松平家の一族は壊滅状態となった。以後は、長忠が率いる安城松平家が、実質的に松平宗家となっている。

家臣から反発を買った6代目の松平信忠

松平家6代目当主には、長忠の嫡男である松平信忠が継ぐ。しかし、自身の権力を強化しようとするあまり、家臣たちから反発を買ったらしい。求心力が低下するなか、信忠もこれ以上、当主は続けられないとあきらめた。こう述べたという(『三河物語』)。

「どうしても一門をはじめ小侍どもにいたるまで私に慕いつかぬようだ。一門の者は私を遠ざけて出仕をしない。小侍までがそうだ。そればかりか、譜代の者までが私を嫌うように思える。それならば、隠居をして、次郎三郎に譲ろう」

家臣たちにそっぽを向かれて散々な状態だが、この「次郎三郎」が松平清康であり、徳川家康の祖父にあたる人物ということになる。

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