天文4(1535)年12月5日、清康の本陣で馬が暴れ出した。騒がしい様子に、弥七郎はとんだ勘違いをする。スパイを疑われた父が、清康によって成敗されたと思い込んだのだ。弥七郎は父の仇を討つべしと、清康を斬りつけて殺してしまった。
当主を失った松平家は攻め込むどころではなく、岡崎城に戻っている。清康はわずか25歳の若さで人生を終えた。『三河物語』では、こんな嘆きが記されている。
「清康が30歳まで生きていたならば、 天下を簡単に手中に収めたことだろう。25歳で死去したことは無念である」
もっとも清康についても史料は少なく、『三河物語』における記述が、どこまで実像を反映しているのかはわからない。家康の祖父ということで、あまりにも英雄的に描かれている可能性は高い。
だが、それでも清康の代に、松平家が勢力を拡大したこと、そして、清康亡き後の松平家が失速したことは確かだろう。そして、そのことが、幼少の家康の身に及ぼした影響は非常に大きかった。
急速に勢いを失った松平氏
清康が殺されたのち、松平家があまりに急速に勢いを失ったため、この事件のことを「守山崩れ」と呼ぶ。なにしろ、清康が死去したときに、後を継いだ嫡男の広忠は10歳に過ぎず、弱体化は必然である。岡崎城は松平信定に奪われてしまう。この悲運の広忠が、家康の父にあたる。
追放された広忠は、伊勢国へと逃れたのち転々とする。どうしようもなくなって頼った先が、今川義元である。広忠は今川氏の後ろ盾を得ながら、
誤解で殺された祖父の運命を背負った徳川家康。天下人への大いなる旅路が始まろうとしていた。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社新書)
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