今川義元がPDCA徹底した武将だったという根拠 もしも戦国時代の戦いをビジネス視点で見たら

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今川義元の銅像
今川義元はなぜ桶狭間の戦いで織田軍の10倍の兵を集めたのでしょうか(写真:Brunch/PIXTA)
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送開始に向け、徳川家康に注目が集まり始めました。それを受け、ここでは若き日の家康、松平元康と名乗っていたころに起きた戦いを、歴史にあまり詳しくない方も理解しやすいようにビジネスの視点を交えて解説していきます。
今回取り上げるのは桶狭間の戦いです。織田信長が一気に戦国時代のスターダムにのし上がるきっかけとなった戦がどういうパワーバランスで起きたのか、そして元康はそこでどういう意思決定をしたのか。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』を上梓した眞邊明人氏が前後編で解説します。

実は優秀な経営者だった今川義元

まず、この桶狭間の合戦が起こる前の松平元康(徳川家康)がどういう状況であったかというと、今川義元率いる今川家に取り込まれた状態でした。

当時の義元は「海道一の弓取り」、つまり東海地区で絶大な力を誇っていた戦国大名です。この状況を現代のビジネスにたとえて言うなら、松平家という中小企業は、今川義元が経営する今川家という大企業に吸収合併され子会社扱いされていたということ。

しかも元康はその子会社の社長ですらなく、本社営業部に配属された課長のような状態でした。戦で活躍すれば岡崎城の城主に戻してやる、つまり営業成績を上げれば自分の父親がいた会社の社長にしてやると言われていたような状況です。

それゆえ元康としては、今川家という大企業で営業成績(戦果)を上げ、岡崎城に城主として戻ることが当時の最大のミッションでした。

今川義元という人物を大企業の社長になぞらえましたが、そのことに違和感を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。それは義元が、現代では不当な扱いを受けているからです。

ドラマや映画、歴史を扱ったゲームなどでは、でっぷりと太って公家かぶれしており、信長にあっけなく討たれてしまった無能な人物のように描かれがちです。しかし義元は、実際は非常に有能な経営者でした。

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