広大な領地をしっかりと維持できていることからもわかるように、部下のマネジメントを適切に行う、今川家という大企業のトップにふさわしい能力を持つリーダーだったのです。
そんな義元が今川家をさらに発展させるうえで難しかったのは、常に武田信玄と北条氏康の脅威に晒されていたことです。南は海ですが、北と東には武田・北条という、いわば大企業がひしめいており、常に緊張状態にありました。
義元は、比較的攻めやすい西側(尾張方面)への進出で領土拡大を目論むものの、北と東の守りは固めておく必要があるため、リソースを集中することができません。実際、西側に位置する尾張で、信長の父である織田信秀と何度も戦ってはいたものの、その隙に東側から侵攻されることを恐れて全力では攻めきれませんでした。
そこで義元は信玄・氏康と交渉し甲相駿三国同盟にこぎつけます。これで、ひとまず北と東の脅威を取り除くことに成功しました。そして満を持して義元は、織田信秀の跡を継いでいた織田信長の領地である尾張への侵攻を決めます。
戦国時代の戦は経済活動
戦国時代の合戦は経済活動です。目的は領土を広げて富を増やすことでした。領土が広がれば農地を獲得できて、そこから年貢という収入を得られるわけです。
しかし富を増やしたいからといって、いつでもどこでも勝手に侵略できるわけではありませんでした。当時ほとんどの戦国大名は、農地を持って農業を兼務しながらその地域を治めている小さな豪族の集まりで構成されていました。農作業が優先されるため、田植えと稲刈りの時期は戦ができません。
もし、その時期に戦をすると、兵として駆り出された農民は農作業ができなくなるため農産物の収穫量がガタ落ちし、年貢が減るだけでなく飢饉が起きるリスクまで抱えることになります。こんな経済を破綻させるような真似は当然できないわけで、そういう意味では戦をするにも常に期限が切られていました。その限られた期間でプロジェクト(合戦)が収まるように計画を立て、その通りに実行しないと成果は上がりません。
これが当時の合戦の暗黙のルールで、そのマネジメントを義元は極めて緻密に行っていました。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら