陰惨で狡猾?人情家?「北条義時」史実に見る実像 「鎌倉殿の13人」主人公の「吾妻鏡」での描写

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義時の気配り話はまだあります。 1207年8月、儀式に何の理由もなく、出てこなかったということで吾妻則光という武士が追及されていたのですが、深く話を聞いてみると「晴れの儀式なのでと用意していた鎧がネズミにかじられて、壊れてしまったので」とのこと。

この話を聞いた将軍・実朝は「もしかして、それは新調した鎧か。とんでもないことだ。お供の兵はその出立ちを飾るべきではない。倹約にも背く」と言い激怒。則光の出仕停止を命じるのでした。

それから4カ月ほど経った12月3日。御所での宴会の最中、青鷺が迷い込み、寝殿の上にとまります。それを不愉快と見た実朝が、鳥を矢で射るように命じます。すると、義時は吾妻則光の名を出し「彼は今、御所の近辺におります。将軍の勘気を被ったことを嘆き訴えたいからです。彼を呼びましょうか」と実朝に言上するのです。

すぐに則光は呼ばれて、矢を放つ。矢は青鷺の目をかすめたとのこと。弓術の見事さに感心した実朝は、則光の出仕を許可するのでした。

機転が利く人物だった北条義時

この話も、義時が困っている人を助けるものです。都合よく、則光が御所の近辺にいるのもおかしいですので、おそらく、事前に、義時と則光の間で、打ち合わせがあったのではないでしょうか。

青鷺が舞い込んできたのは、偶然でしょうが、青鷺が舞い込んでこようがこまいが、義時はどこかのタイミングで則光の名を出し、赦免を請うつもりだったのだと思われます。必然と偶然が重なって、赦免はよりいっそうスムーズにいったといえましょう。

義時は機転が利く武将・政治家だったと私は考えています。東重胤の赦免のときも、重胤を最初、御所に入れず、近辺を徘徊させていたこともそう。これはおそらく、謹慎中の重胤を勝手に御所に入れて、実朝の怒りに触れるのを避けるためだと考えられます。

激しい権力闘争を経ても、なお人情を失わない義時の姿が『吾妻鏡』には描かれているのです。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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