北条氏に翻弄された「源頼家」ダメ将軍といえぬ訳 政治に積極的で弓の腕前も優れていた2代将軍

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源頼家の墓
伊豆・修善寺にある源頼家の墓(写真:極楽蜻蛉/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。ドラマでは金子大地さんが演じる鎌倉幕府2代将軍「源頼家」は、安達景盛の妾を奪い、蹴鞠に熱中するなど、「暗君」として『吾妻鏡』には描かれています。ただ、それが本当の姿だったとは言い切れないようです。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

「源頼家=暗君」は吾妻鏡の影響

1199年1月、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は急死。その後継となったのは、頼朝とその妻・北条政子の間に生まれた嫡男・源頼家でした。

鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、頼朝が死去した年月の項目は丸ごとありませんが、1199年2月6日の項目には、1月26日に、頼家が頼朝の後を継ぎ、御家人をもって諸国を守護することを朝廷から命じられたとする一文があります。 

頼家、このとき17歳。頼家は「暗君」「暴君」という印象が強いのですが、それは北条氏の政権下で編纂された『吾妻鏡』が影響しています。

例えば、頼家が後継となってすぐの3月5日、御家人の後藤基清が「罪科」によって、讃岐国の守護を解任されたとの記述があります。「罪科」が何かについては書かれていませんが、後藤が頼朝の死の直後に起こった土御門通親の襲撃計画(三左衛門事件)に関与したことだといわれています。

三左衛門事件のきっかけは、頼朝の妹婿であり、京都守護を務めていた一条能保(1197年に死去)が、後援者の頼朝を失ったことで一条家が冷遇されると危機感を抱いたことです。

土御門通親は能保のライバルで、後鳥羽天皇の乳母を妻に迎え、養女が後鳥羽の皇子を産むなどして権勢を誇っていました。能保の家人であった後藤らは、土御門通親を襲撃しようとしたのです。

襲撃は未然に防ぐことができましたが、関係者は処罰され、前述のように、後藤は讃岐国の守護を解任されました。

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