北条氏に翻弄された「源頼家」ダメ将軍といえぬ訳 政治に積極的で弓の腕前も優れていた2代将軍
「源頼家=暗君」は吾妻鏡の影響
1199年1月、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は急死。その後継となったのは、頼朝とその妻・北条政子の間に生まれた嫡男・源頼家でした。
鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、頼朝が死去した年月の項目は丸ごとありませんが、1199年2月6日の項目には、1月26日に、頼家が頼朝の後を継ぎ、御家人をもって諸国を守護することを朝廷から命じられたとする一文があります。
頼家、このとき17歳。頼家は「暗君」「暴君」という印象が強いのですが、それは北条氏の政権下で編纂された『吾妻鏡』が影響しています。
例えば、頼家が後継となってすぐの3月5日、御家人の後藤基清が「罪科」によって、讃岐国の守護を解任されたとの記述があります。「罪科」が何かについては書かれていませんが、後藤が頼朝の死の直後に起こった土御門通親の襲撃計画(三左衛門事件)に関与したことだといわれています。
三左衛門事件のきっかけは、頼朝の妹婿であり、京都守護を務めていた一条能保(1197年に死去)が、後援者の頼朝を失ったことで一条家が冷遇されると危機感を抱いたことです。
土御門通親は能保のライバルで、後鳥羽天皇の乳母を妻に迎え、養女が後鳥羽の皇子を産むなどして権勢を誇っていました。能保の家人であった後藤らは、土御門通親を襲撃しようとしたのです。
襲撃は未然に防ぐことができましたが、関係者は処罰され、前述のように、後藤は讃岐国の守護を解任されました。
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