北条氏に翻弄された「源頼家」ダメ将軍といえぬ訳 政治に積極的で弓の腕前も優れていた2代将軍

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『吾妻鏡』は、この頼家による後藤の処罰などについて「頼朝のときに定められたことを変えてしまったのは、これが最初である」と書いています。いいとも悪いとも書いてはいないのですが、どこか、頼家の政(まつりごと)の始めを批判しているようにもとれます。

しかし、後藤は襲撃計画に参画したとの罪科があるのであって、罰があるのは当たり前。おそらく、頼朝が生きていても、同じような罰を下したように思います。よって『吾妻鏡』の頼家「批判」は当たらないといえましょう。

「13人」とは別に側近グループの権限を強化

さて、4月1日には、問注所(訴訟機関)が幕府の外に建てられること、三善康信がその執事となることが命じられています。これは、問注所が幕府内にあると、関係者が群参し、騒がしく、無礼なことなどもあり、騒乱の基になるとして、外部に置かれることになったのでした。

そして、同じ月の12日には、北条時政・北条義時・大江広元・三善善信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政ら13人以外の者が、頼家に安易に訴訟問題を持ち込むことが「不可」となります。

これは、頼家の権限を制限したものではなく、頼家が政治をしやすいようにとの配慮からでしょう。大量の訴訟問題が、頼家に直接持ち込まれたのでは、いくら時間があっても足りませんし、しっかりした政治をすることはできません。13人の有力御家人が若輩の頼家を支える体制が作られたといえましょう。

しかし、頼家は、それとは別に、自らの側近グループの権限強化も目指していました。4月20日には、政所に張り紙がなされ、そこにはこう書かれていました。

「小笠原弥太郎、比企三郎、比企弥四郎、中野五郎ら頼家の従類が、鎌倉の中で、狼藉をしたとしても、民衆は刃向かってはいけない。もし、これに違反している者は、罪人として名を調べて書き出すように、村や里へ命令を出せ。そして、この5人以外のものは、特別な仰せがなければ、簡単に将軍にお会いすることはできない」

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