清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 北条義時は当初反対、「坂東武士の鑑」の最期
戦でも泰然自若としていた畠山重忠
平安時代末の武将・畠山重忠は、いわゆる「鎌倉殿の13人」の中のメンバーではないものの、清廉潔白な人柄と、武勇の誉れ高く、坂東武士の鑑と称賛された有力御家人である。
その重忠は北条義時の父・時政によって滅ぼされることになるのだが、その経緯は後で見るとして、まずは重忠のかっこいいエピソードを紹介しよう。以下は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に掲載されている逸話である。
文治5(1189)年、源頼朝は奥州藤原氏を大軍で攻撃する。藤原氏側は、阿津賀志山(福島県)でこれを迎え討とうとし、重忠は先陣として、攻撃することになった。
ところが、三浦義村や葛西清重らが抜け駆けして、一番乗りをしようとする。これを見た重忠の郎党が「これでは彼らに一番乗りの手柄を奪われてしまいます。彼らの前をふさぎましょう」と注進した。
ところが、重忠は「その必要はない。たとえ、ほかの者の力で敵が退散したとしても、先陣は私が承っているのだから、この重忠が出張って行く前に起こった戦は、すべて、重忠の手柄となるであろう。それに、先頭で戦おうとしている者たちの邪魔をするのは、武勇ではないし、手柄を独り占めしようとしているように見える。おとなしくしているのがよい」と語ったという。ここから、泰然自若とした重忠の姿がうがかえるであろう。
またこれより以前の文治3(1187)年のこと。代官の不法によって、重忠が拘禁刑に処せられた際、重忠は7日間も寝食を絶ち、身の潔白を証明した。重忠の剛直さがわかるエピソードである。
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