清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 北条義時は当初反対、「坂東武士の鑑」の最期

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重忠は、武蔵国の留守所惣検校職を継承したり、陸奥国の葛岡郡地頭職を奥州合戦の恩賞として得たりして、勢力を伸ばし、頼朝死去(1199年)後も鎌倉幕府において重きをなしていた。その重忠があっという間に没落していくのである。

その契機はささいなことであった。元久元(1204)年11月、京都の平賀朝雅の邸で、三代将軍・源実朝の妻となる女性(坊門信清の娘)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が催される。ところが、その宴会の最中に、平賀朝雅と畠山重保(重忠の嫡男)が口喧嘩をしてしまう。同僚が2人をなだめたために、それ以上の過激な方向(刃傷沙汰)に向かうことはなかったが、朝雅のほうは遺恨を残していたようだ。

ちなみに、平賀朝雅というのは、父は義信という河内源氏の武将、母は頼朝の乳母・比企尼の三女。妻は北条時政とその後妻・牧の方との間に生まれた娘である。朝雅は、重保のことを恨みに思い、妻の母である牧の方に讒言したという(『吾妻鏡』)。

北条義時は父の相談に異を唱えた

牧の方は当然のように、夫の北条時政にそのことを話す。時政はこの若き妻を溺愛していたように思われる。だが、単にそれだけでなく、幕府内の有力者・重忠をこの機会に葬りたいと考えたのだろう。

時政は息子の義時と時房を呼び、畠山親子に謀反の疑いありとして、その討滅について相談。ところが、この2人の息子は異を唱える。

「重忠は忠義の士であり、比企能員との戦の際もわが方に味方してくれた。そうであるのに、今さら、謀反というのはありえない。これまでの重忠の手柄を見ず、成敗したとなると、後悔するでしょう。まずは、事の真偽を調べてからでも遅くはないはず」と。

もっともな意見だが、それに対し、父・時政は何も言わず席を立った。

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