清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 北条義時は当初反対、「坂東武士の鑑」の最期

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それからしばらくして、牧の方の兄・大岡時親が北条義時を訪問し、以下のように詰問する。

「重忠の謀反は疑いない。それをあなたは、重忠に代わりごまかそうとしている。牧の方はあなたの継母。よって、継母を讒言者に仕立て上げようとのお考えか」

義時はもう一度、考え直してみるとの返答をし、その場は収まる。

義時のこの判断を「親の命令だから渋々従った」とする人もいるが、義時としてはこれ以上、頑強に抵抗しても、牧の方が時政に「義時は謀反の加担者」と讒言し、最悪の場合は成敗されてしまうと考えたのではないか。

さて、元久2(1205)年6月22日、鎌倉中が騒がしくなり、謀反人征伐の報が流れる。畠山重保はこれを聞いて、急ぎ参陣しようとするも、時政の命令を受けた三浦義村によって、包囲され、殺されてしまう。

重忠も武蔵国の邸から鎌倉に向かおうとするが、そこ(二俣川、神奈川県横浜市)に待ち受けていたのが、北条方の大軍であった。重忠は奮戦するも、ついに矢に当たり、最後には首を斬られる。

北条義時「悲しみの涙を抑えられなかった」

重忠の首は、義時の本陣に届けられた。翌日、義時は鎌倉に引き上げる。時政は義時の合戦の状況を尋ねるが、義時は「重忠の弟や親類は皆遠くの所領に行っており、戦場に従ってきたのはわずかに100騎ばかり。これを見れば、重忠に謀反心があるということは、虚言であることは一目瞭然。重忠は讒言によって討伐されたのだ。何という気の毒なことか。私は重忠の首を見た。そのとき、友人である重忠の親しみが忘れられず、悲しみの涙を抑えることができなかった」と父に抗弁するのである。

しかし、このときもまた、時政は一言も発しなかったという。

時政は政所別当として武蔵国を完全掌握したいと念願しており、重忠は同国の惣検校職にあった。重忠を排除して、武蔵国への影響力を強めたいという時政の野心がこの合戦の背景にあると思われる。

しかし、時政の野心は、息子・義時との対立を生み、結果的には、自らの身を滅ぼしてしまうこととなる。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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