意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる

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豊臣秀吉の人物像に迫ります(イラスト:freehand/PIXTA)
戦国武将の人物像は時代とともに変化しています。織田信長は革命児、豊臣秀吉は人たらしというイメージも、「何百年も前に作られたものではなく、意外と最近、例えば司馬遼太郎が作ったイメージに左右されている」と指摘するのが、歴史学者の呉座勇一氏です。
今回は、呉座氏の著書『戦国武将、虚像と実像』から一部抜粋・再構成し、豊臣秀吉の江戸時代の評価についてお届けします。

朝鮮出兵は「神功皇后以来の壮挙」

豊臣秀吉を貶めようと考える江戸幕府にとって、秀吉の第一の悪行は、主家である織田家から天下を奪った、という事実である。しかしこればかり言いつのると、豊臣家から天下を奪った徳川家はどうなるのだ、というブーメランが返ってきてしまう。そこで幕府が目をつけたのが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の失敗である。この敗戦は、徳川家による簒奪を正当化するうえで格好の材料であった。

儒学者の林羅山・読耕斎(羅山の四男)は、江戸幕府の命を受け、江戸幕府以前の武家政権の歴史を編纂した。これを『将軍家譜』といい、『鎌倉将軍家譜』『京都将軍家譜』『織田信長譜』『豊臣秀吉譜』の四篇から成る。このうち、豊臣秀吉の生涯を漢文体で著した歴史書『豊臣秀吉譜』は明暦4(1658)年に刊行された。

この『豊臣秀吉譜』は、『甫庵太閤記』を主な典拠としているが、竹中重門の『豊鑑』や堀正意の『朝鮮征伐記』を参照した箇所も見られる。そんな中、『豊臣秀吉譜』の独自記事として注目されるのが、朝鮮出兵の動機に関する説明である。

『豊臣秀吉譜』によれば、秀吉は愛児鶴松(秀頼の兄)の夭折を嘆き悲しみ、その悲しさを紛らわすために朝鮮出兵を思いついた。諸大名は驚き、秀吉が悲しみのあまり正気を失ったかと思いつつ、諫言して秀吉の怒りを買うことを恐れて「神功皇后以来の壮挙です」と追従したという。

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