意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる
嘉永5(1852)年、吉田松陰は友人で長州藩士の来原良蔵(良三)に書状を送っている。そこでは、古代の日本は朝鮮半島の国々を服属させていたのに(『日本書紀』の主張だが、現在の歴史学界では歴史的事実とは考えられていない)、その後の日本は外国に武威を示すことができなかった。
ところが、豊臣秀吉は文禄・慶長の役を起こして朝鮮を打ち破り、朝鮮を服属させていた昔の秩序を回復する勢いであったが、不幸にも秀吉が亡くなり、「大業」が成就しなかったことを惜しんでいる(「来原良三に復する書」)。
松陰は、嘉永7年にアメリカへの密航に失敗して投獄され、獄中で『幽囚録』を執筆したが、そこでは「朝鮮を責め、質を納め貢を奉ること、古の盛時のごとくす」という構想を示している。明らかに秀吉の朝鮮出兵を参照したものだろう。
大槻磐渓は「秦の始皇帝や漢の武帝より上」と論評
この考え方は、過激な尊皇攘夷の志士だけのものではなかった。仙台藩の儒学者である大槻磐渓は、父親が蘭学者だったこともあって西洋通であり、欧米との貿易を容認する立場だった。そんな磐渓も、豊臣秀吉の朝鮮出兵を絶賛している。
盤渓は元治元(1864)年に戦国武将の逸話をまとめた『近古史談』を発表している。そこでは、文禄2(1593)年の碧蹄館の戦いに勝利した小早川隆景からの援軍要請を受けて豊臣秀吉が朝鮮渡海を検討するも断念したことについて、秀吉が5、6年若く、自ら朝鮮遠征を行っていれば、愛新覚羅氏より先に明国を滅ぼしていたであろうと説く。
そして、秀吉は忽必烈(フビライ)・歴山王(アレキサンダー大王)・那波烈翁(ナポレオン)という三英雄と並ぶ「四傑」であり、秦の始皇帝や漢の武帝より上であると論評している。
一般に幕末の政治対立は、尊皇派対佐幕派、攘夷派対開国派と整理されがちだが、当の江戸幕府が「尊皇攘夷」を唱えており、尊皇と攘夷は絶対の正義であった。幕府や親幕派の主張は幕藩体制を温存した上での尊皇であり、将来的な攘夷を目標とした一時的な開国である。こうした時代の雰囲気の中で、秀吉絶賛の傾向が強まっていく。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら